『最近、事業主魂が萎えている』ことを痛感することが多い。
ベスト電器にしろピエトロにしろ福岡のお手本になる存在であったが、身売りするような(大手傘下になる)情けない話が流れてくる。 この二社に関してはいずれこのシリーズで報告するが、事業家マインドが薄れてきた当世に苛立ちを抱き本シリーズをまとめた。 |
究極の計画引退 計画を貫き快走した人生(前)
進興設備工業(株)(本社・福岡市南区)は、業界では誰もが認める「ナンバー1」企業である。
売上は15億円程度で推移しているが、規模の問題ではない。内容が抜群なことが「ナンバー1」の証しなのだ。
無借金経営で、一時は税引き前利益率が対売上10%以上を10期超持続したこともある伝説の会社である。
◆ 伝説の男
進興設備工業(株)は様々な伝説を世に提供してきたが、まず「朝が早い、早過ぎる」ことも、ひとつの逸話だ。役員会議は朝5時半から開始する。八女市から通う女性スタッフですら、7時には出社することを聞いておったまげた。技術部隊の7時現場到着を慣習化したことを知り、またまた驚き仰天であった。
まさしく「朝を制すれば一日を制する」の真理を、企業組織あげて長期にわたり実行してきたことこそが伝説の極致なのである。
この伝説を築いた人物=舩津政隆氏が、この度、同社の代表取締役会長を辞任して相談役に就いた。常勤から外れたため、実質の引退である。
「昭和17年生まれの65歳であるから若い若い。惜しまれる退任ドラマ」
と関係者は異口同音に語る。会社業績は相変わらず好調だ。「何故、どうして、辞めるの?」と訝る声も巷に流れている。
この舩津氏の65歳での若い引退に対し、業界には思わぬ波紋が広がっている。業界に影響力を持ち、経営のお手本にもなっていた同氏が65歳で身を引いたという事実は、各経営者に「65歳になれば引退しなければならないスタンダード(基準)が確立した」という意識を定着させつつあるのだ。本当に人騒がせな行為であるが、こういった点こそが「伝説の男」たる所以なのかもしれない。
舩津氏は、進興設備工業に就職した一介のサラリーマンにしか過ぎなかった。創業者・的野一族とはまったく縁もゆかりもなかったのだ。部長のポストにいたある日(昭和54年、37歳当時)、業績不振に不安を抱いた若手社員たちが一斉に退社を決意した。相談を受けた同氏は、一緒に辞表を提出することを決めた。
これに驚いた当時のオーナーは異様な行動に出た。予想に反し、舩津氏に頭を下げてきたのだ。
「危機打開には君が社長を引き受けてくれることしか方策はない」
と嘆願された。
オーナーの必死な形相を目の当たりにした舩津氏は
「絶対に潰れない、噂の出ない会社にします」
と決意表明をして社長職に就くことを受託した。
同氏は
「微動だにしない会社造りをして、いずれは的野家に大政奉還をする」
と自らに誓い計画設定をした。
まず「設備業は現場でしか利益を捻出できない」という認識のもと、昭和54年から56年にかけて、あるコンサルの先生の指導を仰いだ。この指導を受け、設備業の基本=鉄則として位置づけた経営手法のひとつが「朝を制する」ことなのである(余談だが「的野オーナーの老獪さに操られたのではないか?」と問うたことがある。舩津氏は笑いながら「確かにオーナーの強さに翻弄されたかも」と答えてくれた)。
昭和60年当時には早くも「収益断トツのシンコ-」という伝説を構築した。同氏の素晴らしい一面は、「収益の根源の手法」を堂々と同業者にオープンすることだ。同業者からの経営相談には、嫌な顔をせず熱心に助言をしてきた。だからこそ、業界のあらゆる人から尊敬され続けてきたのである。
60歳になったときに突然、社長から会長職にチェンジした。社長には的野敢氏が昇格したのである。創業者の実子である。舩津氏にしてみれば、20年以上前に練った計画を実行したに過ぎない。
今回の65歳での引退も、シナリオ通りの結果なのである。まさに人生設計通りに快走してきた傑物だ。
(つづく)
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