┃山本 博久 [やまもと・ひろひさ]
┃1973年1月16日 大阪生れ
┃住友生命勤務を経た後、37才にして不動産仲介会社を起業。
┃東峰住宅(株)社長、アーサーホーム(株)社長などを歴任し、
┃現在はアークエステート(株)代表。
■ 福岡で起業を目指す、そしてそこでの活動
山本が福岡での起業を目指した理由、それは住友生命から栄泉不動産に出向し、福岡事務所長として、盛んに来福していた折に得た感触からだった。
その時最初に感じたこと、それは九州というところは人情に厚いところだ、と言うこと。そしてよそ者に対する排他的なところが全くなく、「良くぞいらしたね」、と受け止めてくれる。それが福岡という街の最初の印象だった。
そして調べてみると、福岡は徐々に吸引力が増してきており、熊本は国の出先機関が集中している官庁の街であることに対して、福岡は博多商人に象徴される商業の街であり、熱気に溢れた街だ、と山本は強く感じた。
その上新幹線も延伸され開業されるであろうし、そのことでより一層の成長が見込まれる、九州一の成長株だ、と山本は肌で感じていた。
そういう街でありながら、不動産を仲介する業者は沢山いたが、大手のデベロッパーも進出してきておらず、かろうじて西鉄が沿線開発を手掛けているぐらい。
その他の不動産デベロッパーは見当たらない、ビジネスチャンスに溢れた街、と山本は福岡を見た。
こここそが起業に相応しい街、と決意した山本は、勇躍大阪から福岡に乗り込んでくる。そして本格的に開発を手掛けていくには、中途半端な形ではなく、きちんと開発し、それを地元に還元するものにしなければ意味がない。金儲けだけの開発では決して地元は受け入れてくれない、と自らに言い聞かせ、大進興産という会社を起業した。
その当時の高層集合住宅と言えば、公団が都心型アパートを建てたものがあるくらいで、マンションと言えば大濠近辺にあるアーバンライフが開発したものがある程度、市内にはほんの数棟しか見当たらなかった。
山本自身30歳代後半の意気盛んな年代であり、この状況を見れば見るほど、「やってやるぞ」、と情熱を滾(たぎ)らせたのも頷(うなず)ける。
その情熱の中で山本は大阪で、そして住友、栄泉で培ってきたノウハウをフルに駆使し、精一杯の事業活動を展開していった。
そしてその活動の中で縁を得たのが東峰住宅産業であり、同社創業者財津幸重氏だった。
「山本さん、財津さんとお付き合いするのはやめておいた方が良いですよ。あの方はすぐに値引きを迫ってきて、まともにお金を払ってくれる、なんてことはありませんから」
こう耳元で囁く輩が周囲には多かった。
しかし山本はそれに対して、
「そんな話じゃないでしょう。そう言うことを言うこと自体おかしなことですよ。どれだけ確固たるノウハウに基づいて、100%確実な仕事を提供するかが大事なことではないですか。私はそう考えていますよ」
住友で培ってきたものが、山本をしてそう言わしめた。そしてその仕事振りは財津氏の共感を呼び、信頼を得る。
山本は財津氏から、一切の値引き交渉を受けることはなく、世間の評判とは違うと思っていた。他社もそれを知り、山本に対する財津氏の接し方があまりに違うことにやっかみ、不満の声を上げ始めた。
その声を聞いた財津氏は、
「山本さんは100%の仕事をしてくれる。あんた達の仕事は50%から60%くらいの仕事しかしない。だから残りの部分は俺自身がしなきゃならん。だからその分の手数料を払っているんだ。値切っているのではなく、50~60%の労力に対する正当な対価にしろ、と言っているだけだ。それに比べて山本さんはどこにも手の打ち所がないくらいキチッとしている。報告もキチンとしていれば、金銭の取り扱いも綺麗でキチンとしている。だから手数料を値切る根拠がないんだ」
不評な世評を受けている財津氏も、その評判に対する正当な根拠が存在していたのだ。
こうして山本は財津氏との縁を深めていく。
(つづく)
※この連載は小説仕立てとなっていますが、あくまで山本氏への取材に基づくノンフィクションです。しかし文章の性格上、フィクションの部分も含まれる事を予めご了承下さい。
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