宮崎県椎葉村の頃 (2)
岡本氏は
「当時は掘立小屋には電気も水道もトイレも電話もない、文字通りの自給自足の生活であった」
と語る。太陽と共の生活、満天の星が唯一の楽しみであったという。
椎葉村は雨も多いため作業も滞りがちである。冬の寒い中でも「氷の張った川を裸足で走り回り血だらけになる」ほどの作業が続けられたとのことである。
自然と闘い肉体を酷使し、高いところから落ちて死ぬ思いを何度も経験した命がけの仕事であった。それまでも自然環境保護の関係で勝手に採石することはもちろん出来ず、行政と掛け合って「護岸」や川の整備、時にはヤマメの放流や道路整備などを行ないながら採石を続けてきた。
地元の協力も得ながら作業員を雇い、山から山の尾根に索道を張って石を吊り上げ運んでいく。そして石を降ろし、良質の石だけを選んでトラックに乗せ朝早くからで積み出さねばならない。
椎葉村は渓谷だから平らな場所がないので石を保管できない。そこで保管場所を探すことになった。幸いにも人吉の湯前町に保管場所を確保することができた。椎葉村から峠を越え、約60kmの山道をトラックで運び出すことになったのである。
ちなみにこのとき、保管場所の土地購入を世話してくれた方の娘さんが今の岡本夫人である。1971年に結婚してから約8カ月間、岡本夫人は社長と一緒に採石現場の堀立小屋で苦楽を共にされている。
私などにはとても想像できない苛酷な条件下での採石現場の5年間に及び岡本氏を支え、情熱をかきたててきた言葉、それは「楽よりも苦をとる」ということだそうだ。この言葉を生みだしたのが椎葉村であり、今に至るまで岡本氏の中に受け継がれてきていると、私には思われる。
72年に環境庁が発足をして採石が禁止になった。ちょうどこの頃、岡本夫妻に子どもが生まれることになり椎葉村を離れる時期が訪れた。
(つづく)
株式会社 岡本採石造園 |
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