庭石販売から造園業へ
椎葉村時代の1971(昭和46)年に(株)岡本採石造園を設立した岡本氏は、椎葉村を離れたのち、福岡県春日市の県道5号線沿いにバラックの住居兼事務所、倉庫を構える。
そこで展示場を借りて庭石の販売を始めた。
造園業者などがたくさんの庭石を買いに訪れた。個人のお客さんからも引き合いが多くあったという。
この頃には森繁久彌氏が理事長をしていた「やすらぎ荘」に売上げの一部の50万円を寄付もされている。
72年には「日本列島改造論」をひっさげて田中角栄内閣が誕生した。これは60年代の高度成長をさらに推し進め日本全国に拡大していくというものであった。
一方、高度成長下で公害問題が噴出し、またドル・ショックにより円高が進んでいった時期でもあった。
しかしそうした状況にもかかわらず、列島改造論による土地への投機により物価の上昇も始まっていった。
それに輪をかけたのが73年のいわゆる石油危機である。
「狂乱物価」、超インフレに突入し、その後の経済政策の変更により列島改造論は挫折し、インフレは収束したものの74年度の実質経済成長率は0.2%減と戦後初めてのマイナス成長を記録することになる。
こうした中で住宅事情も変化していった。60年代後半からの大規模な住宅地の造成が各地で進められ、分譲住宅を手に入れるには東京では数千倍の抽選を勝ち抜かねばならなかった。さらに列島改造論のおかげで土地も高騰し、「土地成金」の一方で、マイホームは一般のサラリーマンにとっては届かない夢でもあった。
こうした中でも各地から庭石を買いに来られるお客さんのおかげで事業は順調に展開していき、念願の造園業へ一歩一歩近づいていった。その岡本氏の背中を押してくれたが庭石を買っていただいたお客さんの「造園もしてくれんね」という一言であったという。その一言で「さあやるぞ」と決意を新たにいよいよ造園業を始めることになった。
とはいうものの、造園を知ってはいるが「大学へ行って造園を学んだ訳ではない」ので、大学を出て現場を踏んだ職人を呼んで「家庭教師」として自宅に来てもらい、本格的な勉強を始めることになる。造園の話しがきたら、その人と一緒に出かけ、デザイン・見積もりなど行った。
当時は和風造園が主流であったが、岡本氏はその人から4年間にわたり造園の基本的な考え方や技能を学び、深めていく。この時期が岡本氏にとって、造園についての基本理念と時代を先取りする精神が養われていった時期であったといえよう。
最初のお客さんはある会社の寮の仕事であった。大変喜んでもらい、しばらくしてその方から自宅を建てるので庭を造ってくれ、とのうれしい注文が舞い込んできた。
初めての仕事でもあり次のように岡本氏は感慨を込めて語ってくれた。
(つづく)
株式会社 岡本採石造園 |
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