造園業の拡大
最初のお客さんのご自宅はお年寄りを大事にした間取りであったことに気づき非常に感銘を受けた、と岡本氏は語る。
一般の家庭ではお年寄りを「邪魔者」扱いをするかのように北側などに部屋をつくり押し込んであるが、ここはそうではなかった。お年寄りに対する息づかいが感じられた、と。
「自分もそうした人間になりたい、なれるのかな」
という思いで庭園のデザインを考えていったという。
石油危機後の低成長のなかにあっても、個人住宅を中心に注文が入ってくるようになった。岡本氏の腕を見込んでの引き合いである。植栽だけではなく、外構工事、造成なども当然、事業として展開していくことになる。また、国や県からも少しずつではあったが公共工事の仕事も入ってくるようになり、あらたな視点が必要になっていく。
多忙になっていくにつれ逆に勉強し、新しい感覚、時代の流れを取り入れていくことが岡本氏には求められていた。
造園業は庭石だけで成り立つものではない。樹木や芝の研究にも目が注がれた。経済成長の変動はありながらも住宅の供給は拡大の一途をたどっていく。それに伴って庭園樹木の需要が急速に拡大していくことになる。
ここ福岡県には田主丸(現久留米市)という植木の一大産地がある。そして造園業が発展し名だたる造園業者数多く存在している地域でもある。岡本氏はここにも足を運び住宅に変化にふさわしい庭園樹木の勉強を怠ることはなかった。
80年代半ばから後半になると日本社会は「バブル熱」に浮かされていく。岡本氏は元々は和風庭園が専門であった。しかし住宅の洋風化に伴い庭も洋風化していく流れを感じ取り、86(昭和61)年にいち早く海外に単身研修に出掛けるのでる。住の先進国といわれる欧米諸国への研修を重ねていく。今までに60回ぐらいは海外での視察を重ねた、という。
アメリカから資材や樹木等を億単位で輸入し工事に使用していったとのことだ。
庭を住宅だけの視点からとらえるのではなく、景観や街並みづくりのなかで考慮しながら庭園造りを展開する、という視点が定められていったと言えよう。ここが岡本氏がいち早く洋風庭園の技術を学び日本に紹介したひとりである、と評される所以であろう。
また東南アジア諸国にも樹木や材料の選定、仕入れのためにたびたび訪問を続けている。
こうした「時代の流れを読み、先取りして」いく姿勢と感性が発揮されていくのは、大型の一戸建て住宅団地における造成・公園工事である。
(つづく)
株式会社 岡本採石造園 |
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