積水ハウスとの出会いと事業の拡大
1973年頃、積水ハウス(株)との付き合いも始まった。岡本氏が自宅を建てることになったのがきっかけだそうだ。
それまでは
「椎葉村でも5号線の近くに引っ越してからも地主さんにプレハブを建ててもらい、そこを事務所と住み家にした」
ような状態であり、「天井のある家に住んだことがなかった」岡本氏であった。
子どもが生まれ大きくなった将来のことも考えて、現在の水道も引かれていない所を引き払い、つつじヶ丘に積水の家を建てることを決意したそうである。こうして積水ハウス福岡営業所長に依頼することになった。
これが積水ハウスとの出会いの始まりである。手付け金も少なく、とにかく庭石を売り、仕事をみつけ建築費を稼ぎ出すために働きづめの毎日であった。
日本の住宅着工は石油ショック後の一時期を除き右肩上がりが続いていった。24歳の時にはある病院の外構工事や院長の自宅庭園工事を施工した。経済の成長と国の住宅政策も相俟って住宅建設もラッシュを迎えていくことになる。
80年代経済大国として「ひとり勝ち」する日本に対する批判の中で、85年に「プラザ合意」が交わされた。これは主に日本の対米輸出を抑えるために円高が容認されたものである。これを機に日本は「バブル」へ突入していくことになる。
円高不況のなか内需拡大のために金利が引き下げられ、企業・国民は「財テク」に進んでいった。都市部の再開発、地方のリゾート開発ラッシュを極め、地価は高騰、リゾートマンションやゴルフ場も次々に建てられ、飛ぶように売れていった。そして株とともにそれらも投機の対象になっていった時期である。
福岡もこうした流れとは無縁ではなかった。むしろ大規模な開発が展開されていくことになる。行政主導の一大プロジェクトに大手の開発会社、建設会社、住宅会社は我も我もとばかりに開発に飛びついていくことになる。もちろん地場企業も参入にはせ参じていく。
岡本氏も他の地場企業と同様にこの流れの恩恵を蒙ることになる。長崎のホテルの造成・造園工事や福岡県のゴルフ場の玄関・迎賓館廻りの造成や石の販売を共同企業体のひとつとして行うなど多くの実績をあげていった。
この時期は飛ぶように石も売れた時期でもあった。父の「商いは時の運」という言葉を受け止め、石の値段は「言い値」の時代ではあったが、過剰な利益を求めるというよりも信頼、信用関係を築いていくというのが岡本氏の経営理念、スタンスであったということである。
(つづく)
株式会社 岡本採石造園 |
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