紆余曲折
90年代の「バブル崩壊」局面のなかにあっても(株)岡本採石造園は前述のように比較的堅調な業績を残してきた。これは公共工事が大幅に削減されていく中にあって同社の公共事業依存率が比較的低かったことが理由のひとつとしてあげることができよう。
個人の住宅需要も減少し、強力な販路を拡大していくことは同業他社がそうであったように同社も苦戦を強いられることになっていった。しかしその半面、元請大手への依存が大きくなっていった。
さらに、兄弟の会社が経営的に厳しくなり、借入金返済の援助をしなければならない時期もあった。80年代の終わりから90年代初めの時期である。前述したようにゴルフ場や大型住宅団地を多く手がけてきたのは、時代の流れと共に「借金の返済」という事情も関係していたという。
こうした中でも岡本氏の腕を見込んでの住宅造園工事の注文は続いていく。
若築建設(株)の「長崎戸石ニュータウン」の造成・外構工事(2002年~)もそのひとつである。「ガーデンシティ東長崎」と名付けられた住宅団地のエントランスガーデンをはじめ、各宅地の庭・外構を含めたトータルなガーデンイメージをデザインは、家と生活の一体感のある庭造りとして高い評価を得ている。
翌年には同じく長崎の諫早日の出宅地の造成工事を手がけている。各戸の玄関ポーチが公園(コモンスペース)に面し、車庫は「バックアレイ」方式というこの住宅は、りんかい日産建設(株)から基本設計を全面的に任された岡本氏の自信作ともいえるもので、88戸はほどなく完売した。
とはいえ、景気の冷え込みや公共事業の大幅削減がつづく90年代は、公共事業への依存率が高くなかった同社もその影響を免れることはできなかったのである。
「新宮湊坂」や「サンライフ神山手団地」を手がけた時期の93(平成5)年の年商約9億円をピークに、95年には約5億円へと減少の道を辿っていくことになる。そうなれば大手からの仕事を受注し、とにかく仕事をつくって売上げをあげていくことが至上命題になっていく。
こうしたことからこれまで信頼・信用関係を築いてきた積水ハウス(株)への依存が大きくなっていくのはある意味では当然の事であったかも知れない(造成、外構・造園工事に卓越した技量と数々の実績を持つ岡本氏との協力関係を強めていくことは積水ハウス(株)という企業にとってもプラスをもたらすものである、と言うのは言い過ぎではなかろう)。
今から6年ほど前にはミサワホーム(株)が開発した長崎県の造成地が多数売れ残った。その土地を積水が購入し、地元の建設会社にも分けて販売した。岡本氏は積水の分について外回りを綺麗にして完売させている。大分県の造成地についてもそうであった。こうして岡本氏と積水ハウス(株)の協力関係は続いていくことになる。
(つづく)
株式会社 岡本採石造園 |
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