┃山本 博久 [やまもと・ひろひさ]
┃1937年1月16日 大阪生れ
┃住友生命勤務を経た後、37才にして不動産仲介会社を起業。
┃東峰住宅(株)社長、アーサーホーム(株)社長などを歴任し、
┃現在はアークエステート(株)代表。
■ 吸収・分割劇の火蓋が切って落とされた
本当は息子にその後を継がせたくなかった山本。親子の情に鑑み、その苦労から切り離したかったにもかかわらず、S銀行主導の下で社長承継劇は進行していった。
S銀行が描いたシナリオには、実はそこに至る伏線が潜んでいた。そしてその伏線が絵図スタートのきっかけとなったのだ。
山本は会社がまだ小さな時からライオンズ・クラブに属しており、そのライオンズ・クラブの仲間から収集した情報に基づいて社業を発展させてきた。それ故に山本は、ライオンズ・クラブの活動を大切にし、永年にわたり活動に参加していた。そのためクラブの仲間から、再三にわたって会長就任を要請されていた。しかし、クラブの会長ともなると社業がおろそかになる、とその都度要請を断っていた。
それでも要請があり、いよいよ断りきれなくなり、山本は仕方なくS銀行に話をした。
「どうにもこうにもライオンズ・クラブの会長にならざるを得なくなってきた。でも就任期間は一年だから、そのためにはこういう対策をとって、業務には支障をきたすことが無いようにするから、了承しといて下さい」
「山本さん、うちの頭取は、そういうところの会長に就任するような社長がいる会社には一切融資しない、と言っています」
S銀行の支店長はこともなげに、そして冷淡に言葉短く言い放った。
このことをきっかけにその絵図、シナリオはスタートした。
S銀行は山本の長男・浩之を社長に据え、業界にも強かった山本を棚晒しにし、指導力の弱体化を図り、銀行の思うがままに会社をコントロールしよう、と画策していたのがその絵図だったのだ。
世情には順調に見えていた事業承継と山本の経営者人生も、その裏には銀行が暗躍する社長交代劇として進行していたのだ。
そしてS銀行が魔手を顕わにし、牙をむき出したのは浩之社長就任後1年経った、2003年晩夏のことだった。
その顛末は以下の通りである。(弊誌『I・B』No.865 2003/09/11発行より)
資産内容を調査した監査法人から、約80億円の不良資産を指摘されていたアーサーホーム(株)は、企業再生に向けた私的整理ガイドラインに基づき、債務減額の要請をすることが決定した。今後同社は、資産管理会社として山本博久会長・山本浩之社長が不良資産処分に従事。営業部門と健全債権はアーサーヒューマネット(株)に継がれる。なお、アーサーヒューマネットの経営については、山本会長・社長が退任し、小松氏が代表社長となる予定(8/29緊急ファックス情報配信より)。
(中略)
最近は60億円内外の売上げで推移しており、借り入れは約倍の110億円、メインのS銀行は90億円からの融資がある。S銀行は金融監督庁から
『アーサーホームの引き当てが足りない。いつまでに再建の目処をつけるのか』
と追及されており、困り果てたS銀行は
『もう限度だ。9月末をもって整理する。一般債権者には迷惑を掛けられないから当行で被るしかない』
と決断したのである。アーサーホームへの融資の一部カット、株式化を図った。責任を負わせる形で山本会長・社長の二人を、アーサーヒューマネットから排除した。
S銀行にとっての悔やみは、岩田屋の再起みたいにスポンサーを見つける時間が無かったことである。だから経営陣は社内抜擢、そしてS銀行OBが経営中枢に座った。
(以下略)
実際、吸収・分割劇の裏で山本をその舞台から引き摺り落とし、代表権のない人間として情報をオミット、蚊帳の外に置き、目隠ししながら進めていった主役はS銀行だったのだ。故に山本はそれまで何も知らされぬまま、
「会長、ここに辞任届があります。黙ってこれに署名捺印してください」
こう言われ、無理やりその舞台の幕を閉ざされてしまったのだ。
しかし、既に一年前に代表権を剥奪しておきながら、個人保証、債務は残っている、と宣告された山本は、その理屈の通らない理不尽にどう立ち向かっていくか、を考える日々に入っていくのだった。
(つづく)
※この連載は小説仕立てとなっていますが、あくまで山本氏への取材に基づくノンフィクションです。しかし文章の性格上、フィクションの部分も含まれる事を予めご了承下さい。
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