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積水ハウスの興亡史 (3) ── まだ時間は残されている ── 積水ハウスの誕生 |愛する積水シリーズ
特別取材
2007年11月21日 11:32

 試作棟の完成後、いよいよ、東京、大阪に展示場を開設した。プラスチックをふんだんに使ったプレハブ住宅ということで、物珍しさも手伝い、予想以上の来場者があった。

 これはいける!と判断した上野は本格的に住宅産業に進出するため、昭和35年8月(1960)、積水ハウス産業株式会社を設立、社長は上野が兼務することになった。

 ところが、一方では、本体の積水化学の拡大路線にかげりが見え始めていた。本体が揺らぐと、新規事業の積水ハウス産業を育てあげる余裕がなくなっていた。積水ハウス産業の累積赤字は資本金1億円に達する状況になっていた。

 「こんなドラ息子の面倒は見ていられない!」と積水化学の役員会で、上野は住宅事業から撤退する、と宣言。専務の田鍋が「確かに、しんどいが今後住宅需要は増える、潰すのはもったいない」と発言すると、上野は「ならば、お前がやれ!」ということになり、昭和38年8月(1963)積水ハウス産業の社長に田鍋が就任した。

 以来、平成5年(1993)田鍋が死去するまで30年にわたり、社長、会長として、生涯現役で積水ハウスを引っ張り、ゼロから1兆円企業にまで育てあげたのである。

 親会社から、どら息子!と切り捨てられた積水ハウス産業を一人前の会社に育成するという、男の意地を見せようと考えた。朝鮮窒素に入社して、戦後、ソ連占領下のあの38度線を乗り越え、生死の際をくぐりぬけた田鍋は、決心したのである。日窒マンの一人として、ここで踏ん張るしかない、文字通り断崖に立たされた男の背水の陣であった。
(文中敬称略)

(野口孫子)


(つづく)


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