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積水ハウスの興亡史 (5) ── まだ時間は残されている── 株式上場 | 愛する積水シリーズ
特別取材
2007年11月26日 16:10

 営業体制、施工体制も整えた。しかし、骨組みの鉄骨は、当初、デイッピング塗装を施してはいたものの、錆びの原因となるピンホール現象が起こる弱点があった。

 住宅は50年、60年持たさねばという課題があった。そこで、当時、本田技研のモータバイクの塗装に導入されていた、電着塗装方式が取りいれられた。鉄骨の電着塗装を採用したのは業界で初めてであった。

 こうして、部材の品質向上も着実に成果を上げていき、営業、施工、工場がうまくかみ合い始め、売り上げも順調に伸びていった。時は昭和40年(1965)11月~昭和44年(1969)7月まで57ヵ月間続いた「いざなぎ景気」の最中だった。3Cといわれたように、カー、クーラー、カラーテレビの普及が進み、消費の大型化、高級化が進み、日本の経済力の発展は著しく、国民生活全体が底上げされていった時期だ。

 昭和43年(1968)、日本は西ドイツを抜き、世界第二位の経済大国になったのだ。正に、昭和元禄であった。

 営業は土、日、祭日もなく、事務所の灯りは深夜まで消えることないのが積水ハウスと評判になったもので、猛烈社員のお手本みたいなものだった。
 これまで、賞与は6月、12月の年2回の固定であった。それを、上期、下期の決算の業績に応じて、9月、3月に追加賞与を出す制度が確立された。これ以来、年、4回の賞与支給が慣例化したのである。

 この考えは、田鍋がいつも言っていた、わが社には労使はない、労、労だということを実践したのである。皆で働き、頑張ったのだから、会社に利益が出れば、分け合い、社員にも還元する制度を作ったのである。社員の士気が上がるのは当然のこと。社員は率先し、使命感に燃え、頑張ったのである。

 昭和45年8月(1970)、ついに、東京、大阪の第二部に上場を果たす。創立10周年を迎え、売上180億円、利益7億7千万円に達していた。初値は900円だった。田鍋が積水化学を追われる様に来て以来、赤字の積水ハウスがここまで来たか!苦労が報われた一瞬だった。着任7年目だった。大半の社員も株を保有していたから、社員は大いに喜び士気も一段と高まった。
 翌年、昭和45年(1971)には東京、大阪第一部に昇格するのである。
(文中敬称略)

(野口孫子)


(つづく)


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