狂乱物価で建築資材は一挙40%、50%も暴騰していた。住宅は契約して、着工まで3ヶ月。そして着工、完成、引渡しまで3ヶ月かかる。
この契約済みの価格を据え置くか、物価にスライドして買主に値上げをお願いするか決断せねばならなかった。契約通り引き渡せば赤字である。しかし、お客の立場になれば家は高額、収入に見合って購入に踏み切っているはずなので、余分な金はないだろうし、もし値上げを要求しても受け入れないだろう、と判断、既契約分は価格据置とした。赤字は覚悟したのだ。
他社の価格動向を見ると、概ね30%位の値上げをしていた。ここは、他社より値上げ幅を少なくし、売り上げを増やそう!と考えた。こんな狂乱物価は長く続かない、この狂乱の犯人は需要と供給の極端なバランスの崩れのはずだから今のうちに物を確保しようと必要でない量を要求、いわゆる仮需要に動かされ、供給不足に陥り価格が上がっている。
よく見ると、各メーカーの工場はフル稼働している。むしろ、供給は増え始めている。いずれ、正常に戻ると踏んだのだ。
田鍋は「新規契約分は15%アップ」と決めた。読みがはずれ、狂乱物価がおさまらなかったら、赤字の受注を抱え込む危険もあったのだ。そして、全社員に次のような檄をとばしたのである。
「こういう難局こそ、優勝劣敗の岐路であり、企業間格差の開く絶好のチャンスである。全社、一丸となって、この絶好のチャンスに挑もうではないか!社員一人一人が、その任務に向かって努力することである」
運命共同体と持論を持つ田鍋は、大暴風雨の中、決断を下したのである。
田鍋船長は船を近くの避難港へ入れ、嵐の去るのを待てという、消極的なものでなく、この嵐を追い風にして、他船を追い越せ、という積極的指示を行なった。
田鍋の読み通り、昭和49年(1974)春には物価は下がりはじめたのである。昭和49年(1974)7月は売り上げは増えたものの減益となったが、田鍋の決断で、小幅の値上げにとどめたことの効果が大きく寄与した。他社より安いということで、契約が大きく伸びたのである。
既契約分は据え置き、新規契約は小幅という、経営姿勢が世間に認められたのである。昭和50年(1975)1月の本決算では増収増益となった。そして、先発の大和ハウスを抜いて、ついに業界トップの座を獲得したのである。
この、田鍋が「危機」を「好機」に変えた事実は、石油の暴騰により世の中が混乱しかかっている今、こんな時こそ冷静さが必要、流れに付和雷同していてはチャンスは来ないと教えているように思える。
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