親会社、積水化学、子会社、積水ハウスが同じ住宅産業の分野で、競合し、さらに、同じ日窒グループの旭化成も加わって、それぞれが住宅事業の分野で、軌道に乗っているのは稀有な例だろう。プレハブ住宅の着工件数の半分が、現在ではこの日窒グループの3社で占めるまでに至っているのである。
昭和44年(1969)、積水化学の当時の社長小幡氏から田鍋に「技術屋を預かってほしい。建築の勉強をさせたい」と頼まれた。ユニット住宅を開発するという。
一般のプレハブ住宅は骨組み、壁、床、の部材を工場生産し、現場で組み立てしながら、大工によって部屋を仕上げる工法であったのに対し、部屋ごとにユニット化して現場で組み立て、工期短縮になるということだった。
田鍋は即答で社員を預かった。積水ハウスの前身と同じように、再び、積水化学の中に住宅事業部を作ったのである。
積水化学は「セキスイハイム」と名付けて、昭和46年(1971)に、新製品を発表、本格的発売を開始したのである。ハイムも当初は代理店販売であった。積水化学の当時の住宅事業の担当専務が田鍋の積水化学時代の部下だったため、よく相談に来ていた。
販売は直販がよいと話をしたら、直販に切り替え、プラスチックを売っていた他部門から、多くの人材が住宅部門に投入された。
昭和48年(1973)には軌道に乗り始め、今では、積水化学の売り上げの半分を占める最大の収益部門になっている。
旭化成はコンクリート系ALC「へーベル」を生産していた。昭和46年(1971)田鍋の所に、旭化成の役員が「へーベル」を使った住宅を開発して、本格的に売り出したいと相談にやってきた。田鍋は「へーベル」は高いので、東京、大阪の大都会で販売したらどうか。また旭化成は大企業なので、住宅販売のような泥臭い仕事はこなせないだろう。大企業の労働条件では、夜打ち朝掛けのような販売は望めない。販売は別会社にしたほうがいいと助言した。
結果、旭化成は旭ホームズを設立。今では全国展開し、業績も順調である。
この3社に共通しているのは、新しい分野に挑戦するパイオニア精神である。底流には日窒マンの何でもやろうという行動力があるということだろう。
それにしても、田鍋の器の大きさを感じさせる一コマであった。グループ、親会社が同じ業種の商品を開発、販売したいと相談に来る。当然シェアの食い合い、競争相手になるにもかかわらず、田鍋は快く相談を受け、アドバイスをしたのである。その先見の明が、今日の住宅業界における3社の繁栄を導いたのである。(文中敬称略)
野口孫子
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