田鍋にとって海外事業の失敗は、本人が「高い授業料だった」と述懐していたので、忸怩たる思いをしていたことと推測できる。
日綿実業(現ニチメン)を通じて、あるオランダ人が積水ハウスの部材を西ドイツで販売したいと言ってきた。半信半疑だったが、任せて、トライをしたら、売れているという話だった。しかし、しばらく経つと、実際は苦戦していたことが判明してくる。資金繰りに困っているという話だった。やむなく、セキスイシステムバウ社に、51.9%まで資本を投入し、社員も派遣することになる。それでもなかなか売れない。
社員が行って当惑したのは、ドイツの建築基準法が日本とまったく違っていたことだった。日本のように、自分の敷地だからといって好きな建物を自由に建てるということが出来ないのである。京都、奈良で実施されている、景観法のような建築規制があった。自分の敷地といえど、建物の屋根、壁の素材と色の規制が敷かれているのである。例えば、当時のアルミサッシは銀色に光ることから、使用が許されていなかった。
また、建物の配置も、街のバランスと調和させながら計画しなければならない。自分の敷地だから、自由に配置してもいいだろうということはないのだ。それに加えて、必ず地下室を作らなければならないのである。ヨーロッパの街並み、戸建ゾーンの街並みの綺麗な理由はこんなところにあるのだ。
こうした理由から、日本から輸出して使える積水ハウスの工場生産部材は皆無に等しかった。そこで、西ドイツ向けの工場を作り、そこから供給する体制を整えたが売り上げは伸びているにもかかわらず、利益が出ず、損失は膨らんでいった。それは、労働者の会社への忠誠心が低いこと、現場作業員がトルコ、イタリアなどの出稼ぎで、品質管理が出来ないという原因があったからだ。結果的に、地下室から漏水してるとかのクレームが続出した。累積赤字も35億円になっていたことから、ついに田鍋は撤退を決意したのである。昭和57年(1982)のことだった。
住宅は自動車、家電とはまるっきり違う。現地での施工を伴うからである。経営のやり方も、日本では、従業員と、運命共同体意識でまとめられるが、外国ではそんな情緒的なことでは、まったく通用しないことを学んだのだった。(文中敬称略)
野口孫子
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