田鍋は「人間の幸せは住宅にある」と考えていた。住み心地のよい、住む価値のある家、そこで、仕事に疲れた体を休め、リフレッシュできるようにしなければならない。しかし、快適な家であれば十分だとも言えない。人の幸せは環境に左右される。よい環境に恵まれたよい住宅、これが人を幸せにする、と田鍋は言う。だからこそ、積水ハウスはよい環境づくり、よい街づくりにまい進して行ったのである。
積水ハウスは戸建て住宅A型(第1号のセキスイハウス)から出発した鉄とアルミとプラスチックの家を、いかにして住み心地のよいものにするかが、最初の命題だった。田鍋は積水ハウスの事業は戸建住宅が柱である。しかし、日本の人口もやがて減り始める。世帯数も減り始めることが予想される。その流れのなかでも、戸建てのシェアを伸ばしトップを不動のものにしながら、10年、20年の長期の視野で都市開発に積極的に取り組まねばならないと考えたのである。そのとき、将来、都市開発の事業を50%の柱にしたいと
六甲アイランドを試金石にしようと決断したのだった。ここでも日窒のチャレンジ精神の伝統が生きていたのである。
昭和61年(1986)2月、六甲アイランド開発のコンペに住友信託銀行を代表とした積水ハウス案が選ばれたのである。田鍋は「今だから言えるが、コンペに入選したとき、これはえらいことになった。下手したら会社をつぶすかも知れんぞ」と思ったと述懐していた。
開発総事業費2,500億円、昭和60年の積水ハウスの売り上げの半分に相当する金額であった。田鍋は六甲開発本部長に大橋副社長を任命した。営業の大将である。大橋は阪神間をくまなく歩き回り、神戸の特徴、阪神間の特質、人々の視線を見て歩いた。
美しい山並み、瀬戸内海の穏やかな海を背景とした山の手、六甲。神戸の人々はこの山の手、六甲、に住むのが誇りである。それならば、同じように、海の手、六甲、と決定したのである。海をめぐらせ、六甲を望む街にふさわしいキャッチフレーズであった。
時代は折りしもアゲインストからフォローの風に変わりつつあった。大橋は「常に、街は人が主役、よって街づくりは住まいづくり」という信念を持っていた。
第1期の応募は5倍の競争率でスタートしたのである。大橋の新たな信念になっていた。「景気の波に左右されず、よいものを作れば、いつの時代にも存続し得うる」と。この大事業の成功で、積水ハウスの評価が高まったのであった。
そしてその流れは、やがて福岡市のシーサイド百道へつながっていくのである。(文中敬称略)
野口孫子
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