平成2年(1990)1月期、丁度、30周年を迎える年の決算では、過去最高の売り上げ8,416億円、経常707億円を達成。プレハブ業界初の1兆円の売り上げを達成するのは、目前になった。
住宅市場の好調の背景もあったが、田鍋のたゆまぬ経営努力の賜物であった。新製品の開発、工場生産化率の向上、現場施工の省力化、技能者養成による現場品質の向上、等、経営努力の結果であった。
六甲アイランドシテイ成功の裏づけで、「本業は住宅」という「住宅専業」という姿勢はあくまでも崩さず、ビル、マンションの建設から街づくりへと、総合デベロッパーへと変身してきた。この大型プロジェクトを推進するためには長期の資金需要が飛躍的に増大した。田鍋は大型の起債を実施(円建てのワラント債、ユーロ、ドル建てのワラント債、転換社債等)。財務構造は著しく強化健全化が図られ、大型プロジェクトの推進に大きく役立ったのである。
事業拡大とともに、遂に、平成3年(1991)1月の決算で、売り上げ1兆900億円、経常900億円を達成した。名実ともに、業界初の1兆円企業となったのである。
田鍋には万感の思いがあったろうと思われる。28年前、親会社の積水化学から、お荷物の積水ハウス産業というぼろ船を任され、社長に就任して以来、幾たびの難局を乗り越えてきて、とうとうここまでやってきたかという、田鍋の万感の思い、喜び、達成感はいかばかりだったろうか。社員とともに、運命協同体としてやってきた成果でもあった。
プレハブ産業は世界に類のない、先達のいない産業。まるで、海図を持たない船のようなものだった。田鍋はプレハブ協会の理事長として業界を引っ張る牽引車の役目もしていた。名実ともに日本の企業を代表するひとつになったのである。
田鍋はこれを機に、自分の後継にバトンを渡すことを考えていたのではないだろうか。しかし、あまりにも偉大過ぎて、田鍋にとって代わる人材を育てていなかったのである。すでに78歳、体力にも限界を感じていたのではないだろうか。しかし、病は待ったなしでやってくるのである。(文中敬称略)
野口孫子
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