田鍋は最後まで、自分の後継者を育てないまま、自分の体調の悪い事を悟り、遂に奥井(副社長)にバトンを渡したのであった。平成4年(1992)4月のことだった。田鍋亡き後、社内の不協和音が聞こえるようになり、大橋派、奥井派と二分され、このことは、結果的に大きな汚点となったのではないだろうか。
社長の最後の仕事は後継者の育成と交代のルールの整備、自らの進退を誤らないことである。もちろん、田鍋も後継者を誰にするか、模索はしていた。推測ではあるが、一時は中条(中部営業本部長、後に田鍋の肝いりで社長室長)を考えていた節があった。それも社長室長としての仕事振りで、立ち消えになった。
大橋(東京支社長、副社長)が本命と誰しも思っていたが、積水化学出身でないこと、営業の大将として、積水化学ハイムを敵視せざるを得ないことなどから、筆頭株主、積水化学の意向も考慮したのだろうか、田鍋は積水化学入社組で財務畑出身の奥井(副社長)を自分の後継に指名したのである。
田鍋は29年にもわたる長期の社長であった。まさしく、サラリーマン社長ではあっても創業者と同じ扱いにしても異論が出ない人物であった。田鍋は会長となり、大橋は副会長にしたのである。
積水ハウスは営業会社みたいなもので、営業を知らなければ社長は務まらないと皆思っていた。田鍋は「わしがいるから大丈夫だ」と言ってのけた。体調は優れなかっただろうが、院政を引いて指示を下すつもりでいたのではないだろうか。
田鍋も人の子、田鍋の娘婿積水化学から転籍してきた、本田(開発事業部長)を奥井の後の後継者にしたかったのでは?と噂も立っていたが、田鍋の心の内は分からない。娘婿本田を育てる時間もなく、この世を去ることになるのである。(文中敬称略)
野口孫子
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