田鍋は、平成3年(1991)秋頃、急に体調を崩す。すぐ治ると簡単に思っていたのが、中々治らない、結局長期の入院になった。そのとき、自分は不死身ではないと悟ったのか、自分に、もしものことがあった時、公器の会社に迷惑かけると考えたのだろう。田鍋はまだまだ、社長を続けるつもりだったのだろうが、やむなく体調を考慮して、後継を指名し、自分は会長に退くことを決心したのである。
前述したように、田鍋は後継者を育てもしてなかった。社長業は後継を育てることが仕事の半分と言われているが、それを怠っていたとしか思えない。田鍋の陰の部分でもある。案の定、営業を押さえている大橋副社長を社長へ、と思う一派と、田鍋が推す奥井副社長一派との激しいつばぜり合いがあったと聞いている。
田鍋は、平成4年(1992)4月、社長を交代し、会長田鍋、副会長大橋、新社長に奥井を指名したのである。営業に絶大の信頼のある大橋が閑職の副会長には納得いかないという勢力が出来つつあったのである。このことが、田鍋亡き後、火種として残っていく。
田鍋は会長になるも、新社長の助言指導に明け暮れる毎日だったが、社長の激務からは 開放されていた。しかし病魔は確実に進行していたのである。ようやく、その年の8月、精密検査で癌と判明。それから、1年間の闘病生活が始まるのであった。
体調を見ながら、全国営業会議に出席。平成5年3月、梅田スカイビルの竣工式にも出席し、4月には初めての会長として株主総会にも出席し、仕事を続ける田鍋は上機嫌だった。しかし病状は一進一退しながら、確実に進行していた。遂に平成5年(1993)8月2日、積水ハウスの創立記念日の翌日に、生涯現役を通して旅立って行ったのである。
振り返れば、積水ハウスをゼロから1兆円企業に成長させた功績、田鍋の哲学、人間愛は、今も積水ハウスの中に、脈々と流れている。和田体制で、今は、真の田鍋イズムは影を潜めているが、必ず、復活すると信じている。(文中敬称略)
野口孫子
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