田鍋の亡き後、大橋が会長に昇格し、奥井が社長という体制がスタートした。田鍋が指名して奥井体制にしたのだが、田鍋が会長で君臨しながら、営業のわからない奥井を当面は指導していくつもりだった。しかし、自分がこんなに早く逝ってしまうなどとは思ってもみなかったのだろう。奥井が体制を固める時間もなく、不本意にも田鍋は去っていってしまった。
奥井は当然、田鍋の遺志を継いで、田鍋の基本哲学、「人間愛」を基軸に据え、経営の継続を図ろうとした。しかし、社内の役員達は奥井を支持するグループと、明らかに大橋を支持するグループ、そしてどちらとも態度を見せない、旗色を見せず事の成り行きを見守るグループに分かれてしまっていた。
当然、役員会は一枚岩ではなくなっていた。奥井の苛立ちも相当なものだったろうと推測できる。しかし、日本の会社法は社長に絶大な権力を与えている。大橋を支持するグループが過半数を占めていなかったことが幸いして、奥井が社長としての権力、人事権を使いながら、徐々に体制を固めつつあった。田鍋亡き後1年が過ぎようとしていた。
そこに、平成7年(1995年)1月17日、そう、まさに13年前の今日、突然、未曾有の阪神淡路大震災が阪神地区を襲うのである。このことで、内紛でゴタゴタする余裕はなくなり、一気に、積水ハウスにお住まいのお客さんの対応のため、全社員が臨戦態勢に入ったのであった。この震災で、2年以上にわたる震災特需が起こり、会社の業績も上がった。営業を知らないと言われていた奥井でも、業績を伸ばせたのであった。このことが、奥井の確固たる地位を築いたのであった。
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