田鍋亡き後、大橋会長派と奥井社長派との確執、大橋、奥井の個人間の確執はひどくなる一方だった。全国の営業会議で幹部の集まる中、その満座の席でも奥井の短気な性格から、大橋に向かい、苛立ちの発言もするような状況で、二人の喧嘩はどちらが勝つのだろうかと各幹部はしらけながら見守るしかなかった。
このような場合はどちらにつくか旗色を見せないほうが得策である。このような権力闘争の状況を作ったのは田鍋である。田鍋はまだ10年は生きられると思っていたのだろう。後継者を育てないまま逝ってしまったことがこのような状況を作ってしまったのである。
しかしながら、日本の社長の権力は絶大で、取締役会では議長の権限を持っている。やがて、役員、本部長、本社部長クラスの人事権を持っている奥井が大勢を制するようになっていた。代表権のある会長といえども、手も足も出ない。当時、中部営業本部長で奥井側についていた和田、工場担当専務の田中を前述のように、各営業本部の上に、西日本統括本部長、東日本統括本部長に任命した。当然、中部以西は、和田より先輩の本部長(大橋派)は退任へ追い込まれ、それと時を同じくして造反組も一掃され、支持基盤を失った大橋も会長退任となったのである。
ここに完全に奥井体制が出来上がったのである。奥井は田鍋亡き後、3年を要して、奥井体制を確立したのである。経営数字も震災特需で活況を呈し、順調に推移していた。奥井は社長就任以来、長く社長をやるつもりはなかった。内紛が片付き、後継者を考える時期になっていた。
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