奥井は今期限りと考えていたようで、後継者を誰にするか、相当、躊躇し、決断し兼ねていた。前述の通り、奥井の気持ちは和田にしたいと思っていたようだ。しかし、和田が育て上げた部下のいる中部営業本部以外から、和田を歓迎するムードは湧き起こってこなかった。
和田に関して上がってくるのは悪い話が多かったと噂されていた。聞くところでは、奥井も確証を取るため、主に中部名古屋での噂の真偽を本社幹部に調査させたが、和田体制になることが濃厚な時期なのに、自分の将来を賭けてまで正確に調査するわけもなく、噂は噂に過ぎないと奥井に報告されるに過ぎなかったのであった。特に、関東地区はリタイアした大橋を慕う幹部社員も多く、和田体制になれば、彼らが冷や飯を食うことが予測され、中部では和田批判は法度、和田の言うことはすべてだという風潮があり、反対意見を言えば左遷された。中部の和田天皇とも言われていた。
和田の権威主義は皆の知るところであったので、社内の大勢は穏健な、バランスのいい考え方をする杉村を待望していた。また、社外から、特に、積水ハウス株の20%以上を所有している大株主である親会社の積水化学(化学の方針で総発行株の20%を、増資しようが、市場から買い足してでも死守する方針を持っていた)は杉村を期待していたようだ。奥井も迷ってはいた。杉村では営業の実績も少ない、造反事件にも、大橋会長とも親しかったため、杉村は中立を保っていたのであった。
そうこうするうちに、奥井もはっきり決断したのか、してないかは定かではないが、平成9年(1997)秋11月(発表時期はかなり早い)、日経新聞に来年5月、和田社長へ!と人事がリークされたのである。誰が漏らしたかわからないが、奥井か、和田しかいないだろうとしか推測できない。この新聞辞令で、一気に和田社長という、既成事実が作り上げられたのであった。
奥井は「和田にはいろいろあるけど、わしが目の黒いうちは絶対変な事はさせない」と言っていたと噂では聞いている。奥井のこの思い上がりが間違いであったことは後で知ることとなるのである。 (文中敬称略)
野口孫子
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