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「戦い」を支えたのは一級建築士としての誇り(2) サムシング設立から倒産まで | 建設業界への提言
特別取材
2008年1月31日 09:55

 仲盛氏は1951年2月8日に生まれた(実はこの誕生日が、仲盛氏にとって一生忘れられない日と重なるのだが、それは後述する)。九州産業大学卒業後、日本建設(株)に入社。78年(27歳)で独立し、昭和設計事務所を創業。80年2月(29歳)に設計工房サムシング(株)を設立し、同社代表取締役に就任した。

 構造設計を生業としたきっかけは、「自分はデザインには向いていなかった。だから、何の迷いも無く構造設計を選んだ」からで、独立した動機は「設計事務所として大成したい、人に使われたくない」という思いが強かったからだという。

 もちろん、はじめは仕事がなく、非常に苦労していたようだ。氏が言うには、1件1件、設計事務所やゼネコンに対して営業してまわることに対し、恐怖を感じるようになっていたという。
 
 しかし、昭和60年代には建築物が急激に増えたこともあって、同社は下請ながら急速にその業容を拡大していった。そのきっかけは、構造計算・図面作成・営業をそれぞれ分業制にしたことだった。

 40歳(91年)で春日市に引っ越したときの社員は、約30名だった。当時はバブル期と重なっており、仕事が無条件に入ってきていた。それを捌くために増員を優先した結果、45歳(96年)頃になると、社員も55名に増え、最高で60名を抱えるようになっていた。これだけ人員を抱えている設計事務所は、全国的にも珍しかったそうだ。

 こうして同社は、構造設計の分野では福岡地区でシェア70%を確保することに成功した。だが氏は、ある過ちを犯したことがきっかけで経営が傾き、経営を続ける気力を失ってしまい、ついに2002年9月の廃業に至ったと回顧する。

 その原因のひとつは、いろいろな商売に手を出したこと。とくに当時は、不動産物件を10件以上も購入していた。「不動産は、大手マンション会社から強制的に現金で買わされていた。その見返りに仕事をやるという、甘い誘いにのって。私は、仕事のためのお付き合いと思って買っていたが、結局仕事はもらえなかった。従業員が増えすぎて、仕事をとるのに躍起になっていた」と氏は反省する。

 もうひとつは、どんぶり勘定による資金繰りの悪化。「不渡り手形をつかまされたり、安易に手形に頼りすぎたりした。民事再生法が施行された直後で、それで助かったとは言え、これは大罪だ。罪悪感は強く残っている」と悔やむ。

 「これからは仕事をすることで償っていきたい。自分の知識や経験、そしてノウハウを後世に残していきたい」と、別の設計事務所で雇われるかたちで仕事を続けていた仲盛氏。そこに突然、あの姉歯事件が起き、「第2の姉歯」として槍玉にあげられ、2年間の戦いの日々を送ることになったのである。


つづく


[プロフィール]
仲盛 昭二 (なかもり しょうじ)                    
協同組合 建築構造調査機構 一級建築士事務所
参事(技術担当)
1951年2月8日、福岡市博多区生まれ。
九州産業大学卒業後、日本建設(株)に入社。
1978年、独立し、昭和設計事務所を創業。
1980年2月、設計工房サムシング(株)を設立し、同社代表取締役に就任。
2002年9月、サムシング廃業。
その後の現在に至るまでの詳細は、本文にて紹介。

▼共同組合 建築構造調査機構
http://www.asio.jp/


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