平成7年(1995)1月17日、まだ夜明け前、突然、阪神地区を大地震が襲った。夜明けとともに、徐々に、被害の大きさが、テレビで報じられ始めた。日本中、その被害の大きさに驚くとともに、被災者を早く救助をしなければと思う人が多かっただろう。ブラウン管に映し出される映像は高速道路の倒壊、神戸市内のあちらこちらに上がる火の手、生々しいものばかりだった。
積水ハウスはすぐに緊急災害対策本部を設置。本部長に現社長の和田(当時中部営業本部長)が任命されたのである。積水ハウスはお客さんの救済と緊急物資の提供を最優先に、関西地区の事業所を中心として、すぐさま、活動を開始した。被災されたお客さんには、積水ハウスから水、食料、生活必需品の差し入れがあり、非常に感謝されたのであった。
それと平行するように、積水ハウスの被災、破損の状況を全棟調査に入ったところ、倒壊はゼロ、軽微な破損があるだけ、という結果だった。周辺はほとんど倒壊しているのに、セキスイハウスだけがただ一棟建っているというところもあり、セキスイハウスが地震に強い、ということが実証されたのであった。
技術陣も大いに意を強くした。時はあまり経たないうちに、人々は復興に向け、住まいの新築へと走り始めていた。積水ハウスの地震に強いという評判と緊急時の会社を上げての支援体制の強さが評判が評判を呼び、セキスイハウスの受注が関西地区で抱えている工事力をはるかにオーバーするものだった。
被災されたお客さんの、早く新しい家で暮らしたいという要望に応えるため、対策本部長の和田は全国の事業所に工事店、職人の応援を要請。全国から工事店、職人が神戸に参集したのであった。こうして、積水ハウスは総力を上げて対処していったのである。
和田のこの実績が奥井の信頼を強固なものにしたのだろう。各ブロックの営業本部の上に、新たに、西日本統括、東日本統括営業本部を設置。奥井は和田を西日本統括営業本部長に抜擢、東日本を田中副社長(工場畑で営業経験なし)任命したのであった。災害特需で、西日本が数字上も上回り、次第に営業の出身の和田の勢いが田中を圧倒していったのである。(文中敬称略)
野口孫子