突然の病
苛烈な価格競争は、高木氏の肉体と精神を少しずつ、そして確実にむしばんでいった。薄利多売の業界にあっては自動車用の石油販売だけではやっていくのが困難であった。自動車以外の船舶用、建設機械などにその用途を拡大していく営業活動が日課になった。さらには元売りとの価格交渉など連日連夜の折衝もあった。営業や元売りから会社に戻り、日報や売上げの確認、業務指導を終え帰宅。それから又会社に行き価格設定などの仕事が山積みであり、家族や家のことを省みることはできなかったようである。
このような仕事のやり方は、短期間や若いときは続くかも知れない。学校で柔道をやっていた自分の体力への過信もあった、と高木氏は振り返る。50歳を過ぎてからはそうそう無理が利かなくなるのは当然である。
99年1月、突然、身体の左半身に脱力感を覚え麻痺が起こる。いろんな病院で検査入院を繰り返し、10月に「多発性硬化症」という難病であることが判明し、入院をすることになる。しかし氏は病室にパソコンと携帯電話を持ち込み、本社との間で日常業務の点検をおこなう、というテレビドラマ張りの日々を過ごす。
職場が本社から病院に移っただけの話である。療養に専念できるはずもなく、好転の見込みもない。ある日、高木氏は大学病院の医師に尋ねた。「どうしたら治るのでしょうか?」と。その医師は「この病気はストレス過多では治りません。生活パターンを変えないと改善は見込めない。リハビリを徹底的に行わないと1年で寝たきりの状態になる可能性がある」と語ったという。
高木氏は、この言葉にショックを受けた。現在の経営状況のなか、陣頭指揮も出来ない体の状態でこれ以上事業を続けると借入金を返済できず周囲に大きな迷惑をかけると判断し、社長辞任を決意する。この時点ですでにSSは2店舗を売却し、仕入れについては、伊藤忠との取引へと変更し原価コストの引き下げを図っていた時期であった。
[プロフィール]
高木 教光 (タカキ キョウコウ)
NPO法人 キャリア教育サポート 専務理事
九州産業大学 非常勤講師
1951年 福岡市博多区生まれ
1972年 九州産業大学 産業経営学部 卒業
NPO法人キャリア教育サポートを設立 地場企業の経営者と教育界の方々との連携を行い、青少年の健全育成と地場企業への就職支援事業、教育事業やイベントを開催 福岡地区の大学生の自立と 起業支援事業を行う。
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