九州八重洲興業企業買収にみる企業研究 意地がない(1)
建売の草分け
九州八重洲興業が西部ガスに買収されたことは関係者に多大なショックを与えたが、やむえない選択であった。建売を本業にしている同社は、銀行から金を借りられなければ土地を仕込まれず、事業存続が不可能になる(経緯を後述する)。「西部ガスの傘下に入れば資金調達が容易になる」との梶一政会長の判断で身売りを決定したのであろう。西部ガス側のメリットは新聞紙上でも発表されているのでこの紙面では省略する。今回のM&A劇を目撃しながらの感想は『中小企業オーナー経営者の事業魂が脆くなった』ということだ。
九州八重洲興業の設立は1977年11月であるが、福岡、いや北部九州の大型建売の草分け、大御所的存在である。それは梶会長の実父勲氏が東京で八重洲興業を起こしたことから始まる。東京を起点にして、福岡、北部九州で大団地を供給してきた。大宰府市高尾周辺の住宅団地は昭和48年以前のものだ。博多区博多駅前1丁目や西通りに八重洲ビルを保有していたが、それは昭和40年代の栄華の象徴でもあった。
ところが、独立体のデッペロパーであった八重洲興業は、信託銀行の画策に会い、梶勲氏は会社から放逐された。本人は淡々と身を引くつもりであったが、周囲に「もう一度、再起しましょう」と勧められ、基盤のあった福岡に九州八重洲興業を設立したのである。だから、同社設立の歴史は30年程度だが、勲氏の八重洲興業時代からさかのぼれば50年に達するのである。だからこそ『建売の草分け』と評価されるのだ。
親和銀行に圧死された
勲氏の実子一政氏は九州八重洲興業の二代目として、手堅く且つ義理がたい経営をしてきた。義理堅い証拠に九州銀行をメインバンクとして一行取引に徹してきた。九州銀行が自己資本強化のための第三者割当を行ったが、同社も億単位の株を引き受けた(結果、大損を生みだした)。同社には予想駄にしないことが生じた。まさに悪夢だ。九州銀行が消滅、親和銀行に飲干されたのである。
九州八重洲興業に対して親和銀行の苛めが始まった。親和銀行自身の作為なのか担当窓口が率先して行ったのかいまだにわからない。筆者は度々、「これだけコケにされて付き合いをすることもなかろう。親和以外の銀行との取引の決断をしろ」と迫ったが、一政氏は要領の得ない優柔不断な対応に終始した。「社長が交代すれば応援してくれるだろう」という甘い読みで、息子である28歳の壮右氏に三代目社長を譲った。この判断も甘い。
こちらも応援の意味で商品の土地情報を流したが、結局は資金が付かず、土地手当てを出来ずに終わった。要は中小企業オーナーとしての企業防衛感覚に乏しいというか、気迫に欠けているのだ。最後に選んだ道は西部ガスの軍門に下ることであった。そこそこに飯が食べられれば良いのか。M&Aが中小企業オーナーを安易な方向に流れさせだしたという事実の証なのだ(続)
※記事へのご意見はこちら