農薬は薬か
ただ、農薬を無制限に使用した弊害というのは歴史が証明している。またそれは、失敗からの反省という歴史でもある。
農薬に対する規制がほとんどなかった1940年代、格段に上昇した収穫量に目がくらみ、その毒性や環境汚染といったリスクには気付きもしなかった。安価で大量生産できるうえに少量で効果があり、人畜無害に見えたDDTは、47年に日本で導入され広まることになる。しかし、62年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』によって、その危険性(自然界では分解しにくいため、食物連鎖を通して人間の体内に大量に取り込まれる可能性があるというリスク)が指摘され、結果的に製造禁止となった。
日本では60年代半ばを境に、人畜に有害で毒性の強い農薬の製造・販売は禁止され、これに代わる農薬には、より一層の安全性が求められるようになった。結果、71年に農薬取締法が大幅に改正、登録制度が強化され、現在では「人間の体に毒性を及ぼす」危険のあるものは一切製造されなくなっている。
つまり、現代における農薬の問題が真に「問題」として取り上げられるためには、その法体制・規制を逸脱したものに限られなければならない。たとえば、今回の騒動の発端となったメタミドホスだが、日本では無登録農薬に分類され、製造・販売・輸入・使用の一切が禁止されている。今回の騒動で恐ろしいのは、過剰な報道が続けられるなかで、「すべての農薬は毒である」という無根拠な認識が広まってしまうことである。科学的に安全性が示されているものよりも、非科学的な妄言が信用を得てしまうという矛盾こそ、今回の問題の本質ではなかろうか。
毒性に対する極論
「毒性の無い農薬は無い」という主張は正しい。しかし、それは(ときにジョークとして使用される)「パンを食べた人の死亡率は100%」という主張くらい乱暴で、滑稽だ。身近にあるものすべてに「毒性」がある以上、毒性=危険とは言えない。たとえば、私たちが毎日摂取している塩。しかし、体重50キログラムの人間が一度に150グラムの塩を摂取してしまえば、その人の死亡率は50%にまで跳ね上がる。コーラと間違えて醤油を飲めば死ぬかもしれないし、水を一度に大量に飲むことで死ぬ「水中毒死」という現象だって存在する。
農薬も同じだ。毒性があるから危険なのではなく、一度に摂取する量、毒性の強弱という点を問題視しなければならない。前者は残留農薬というリスク、後者は無登録農薬使用のリスクということになろう。
また、私たちが食している農作物の大半は人の手によって改良されてきた栽培種。人の手(=農薬)無しでは正常に成長しないとも言われている。何も知らずに農薬の批判ばかりしていても、問題は解決しない。すべての農薬を毒と言うのならば、(極論を言えば)毒無しに人は生きていけないとも表現できる。
にもかかわらず、己の純潔さを掲げて、農薬批判をする人々。人間は何と哀れなんだろうかと思う。
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