カンボジアの再興が遅れている原因としてよく言われるのが、「知識人の不足」である。1975年から始まったポルポト派政権下、学者や医者、僧侶など多くの知識人が「命は助けるから」とクメールルージュにだまされて虐殺されたのは有名な話である。
その現場のひとつがトゥールスレン収容所。社会主義改革を推し進めるポルポト派の政策を妨害する「反革命分子」と見なされた者は、家族や知人なども含めて、ここで激しい拷問を加えられて尋問され、ここで亡くなる人もいれば、キリング・フィールド(次回紹介)に運ばれ処刑される人もいた。
ここは75年までは高校だったが、ポルポト派によって閉校され刑務所となった。当時約1万7000名もの人々が拷問を受け、内戦後に生き残ったのはたったの7名だったという。殺害された人々のなかには、国の将来を背負うべき子供もたくさんいた。
逃走防止の鉄条網が張り巡らされた建物、人々を収容するための小さな独房、看守によって殺害された人の墓、そして拷問部屋の床にわずかに残る血痕など、生々しい虐殺現場が保存されている。
なぜ、ポルポトが自国民のカンボジア人をこれだけ殺害するに至ったのか。彼が中国に留学した際に毛沢東について、また文化大革命について学び、それを実践したのだろうという説はあるが、事実は定かではない。
ともかく、「この時期に文化・文明・伝統がすべて壊れた。教育システムも小学校から大学まですべて壊れた。またこの時のトラウマで、新政府になっても『知識人はだまされて殺されるのでは』と国民が疑心暗鬼になって人材が集まらなかった」とガイドの人は語る。
また、「政府批判をしようものなら行方不明になってしまう。外で政治の話なんてできない」という風潮が厳然として残っているようだ。こうした状態が続く限り、自国の経済力で国を立て直すのはなかなか難しいだろう。内戦の爪跡は思っていたよりも深いようだ。
つづく
【大根田康介】
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