先人の明が北九州空港を産んだ
九州の玄関口として誇れる空港に
北九州空港に計画段階から関わり、その経緯を余すところ無く知る苅田商工会議所三原晴正会頭。身をもって体験した空港誕生までの秘話と今後の期待を聞いた。
—北九州空港が産まれるきっかけを一番ご存知の会頭に誕生までのお話しを是非お聞きしたいです。
三原 苅田町には1918年(大正7年)に豊国セメントが進出してから、多くの日本を代表する企業が進出してきました。その背景には九州の玄関に位置しておだやかな周防灘に面しているという地域の特性があった訳です。
しかしいくら地の利があってもその土地に新しい産業を興すのだ、という気概を持った人達がいなければ実際に企業の進出も捗らなかったでしょう。
豊津高校出身で時の奥村喜和男・内閣調査局調査官が、昭和初期に築港のために550万円(現在の価値で約30億円)の国庫予算を付け苅田の発展が始まったと言えます。
その後も行政と苅田商工会議所は積極的に日本の中心産業となる企業を誘致して現在に到った訳です。
そうした地元の熱意から企業誘致だけでなく、企業活動に必要なインフラとして新北九州空港を作ろうという気運が出てきたのです。
—実際にはいつ頃から新空港の話が起きたのですか。
三原 1971年頃運輸省の山下第四港湾建設局長が言い出したのが最初だと思います。当時は周りの誰もが、「夢みたいな話」とびっくりしたものです。
それを亀井知事が取り上げて、本格的に動き出したのは78年に「新北九州空港建設促進期成会」が出来てからでしょうね。
—期成会はどのようなメンバーが中心だったのでしょうか。
三原 亀井知事を会長に谷北九州市長と尾形苅田町長が副会長として入っていましたが、実はその前の準備幹事会で苅田は町長が理事に入っているだけでした、場所が苅田の沖ということで、私が意見をし、町長が副会長に、議長と私自身も理事になりました。
会ができてからは、亀井知事を中心に谷市長、尾形町長、北九州商工会議所の安川会頭と共に熱心に中央に掛けあいました。
残念ながらこうした空港誕生に本当に貢献いただいた方々は私以外亡くなってしまいました。
—中央との折衝はご苦労も多かったのでしょうね。
三原 亀井知事と国に陳情に行った時、「あそこは土砂の捨て場で、公園でしょう」と言われ、非常に悔しい思いをしましたが、はっきりと「空港」ですと亀井知事が答えたことを鮮烈に思い出します。
そして、亀井知事は粘り強く交渉を重ねていただき、後に末吉市長を始め地元の人たちがその意気を継いで国を動かすことができたと思います。
—財界への働きかけはどうされたのでしょう。
三原 北九州はもちろん、苅田は日本の代表的企業が集中しています。85年には地元企業として、苅田から三菱の大槻文平日経連会長と日産の石原俊経済同友会代表幹事、北九州から新日鉄斉藤栄四郎経団連会長、出光石田経団連副会長、三菱化成鈴木経団連副会長、福岡県の奥田知事が西日本銀行の頭取と企業のトップに集まっていただき強く協力要請をいたしました。
その時に谷市長が、各大物に新空港支援の署名をしてくれと企業としての郷土愛の重要性を繰り返してお願いし、協力を取り付けたものです。
—漁業補償の問題は起きてこなかったのですか。
三原 私の父が昔、硅石(セメント原料)を船で出していましたので、網を切ることがありました。父は、苅田は海から発展する町だからと漁業関係者を大事にして、すぐに補償をしていい関係を維持してきたものです。
空港を作るという話が進んできた時も、本当にありがたいことですが、地域の17漁協が協力していただき、スムーズに解決いたしました。
空港もメガフロートや鉄で造るなどの話しも出ましたが、魚が増えないので、置石をした方がよいということで、空港ができた今では空港島周辺はいい漁礁ができたためか魚が多く集まり、それを狙ってスナメリ(小型の鯨)まで寄ってきているそうです。
—出来上がった新空港について今のお気持ちは。
三原 山下局長が夢のようにして語った海上空港がこうして出来上がり、亀井知事、谷市長、尾形町長、安川会頭、後に末吉市長と多くの人たちがこれを推し進め、30年来の建設促進活動が実現したことは本当に喜びの表現がないくらいです。
心配していた利用者数も順調に伸びてきていて立ち上がりは成功と言えるでしょう。
出来上がった空港を見るたびに地域の将来を考えた先人や関係者各位の明に改めて敬意を表したいと思います。
しかし現状に満足するのではなく、北部九州の今からを支えていかなければならない世代の方々には空港の将来をしっかり考えていただきたいと思います。
—建設活動の当初はどういう空港を作ろうというイメージだったのですか。
三原 世界のいろいろな空港を見て回りましたよ。デンバーとかシカゴとか仁川とか。
日本の空港は狭い国土に小さな空港がせめぎ合い、その枠で考えていたのでは、国際競争に晒されている日本の代表企業が集まる北部九州の玄関口としてふさわしくないと考えるようになりました。
幸いこの海域は7〜8mと浅く岩盤までも18mと海上空港を作るのにもってこいの条件でした。さらに関門海峡などからの浚渫土砂を持ってくるので建設費用が安くできる。
陸から離れているので騒音問題も起こり難く、地権者との問題もない。理想的な空港を発展的に作っていけるのです。
—今後はどのような空港になればいいとお考えですか。
三原 現在は滑走路が2,500mと短く、大型ジェットの発着は無理ですが、3,500mとか4,000mに伸ばすのに比較的短期間で実現もできるでしょうし、是非実現して欲しい。
さらに長期的には複数の滑走路を持った本格的九州の代表的空港になってもらえれば、それは北部九州も発展しているという証明ですので期待しています。
小さな服に大きな身体は入りませんが、大きな服を用意していれば、身体が大きくなっても着続けられます。
もうひとつ、できれば空港までの新幹線やJRなど軌道系交通手段がつながればいいと思う。
アクセスがよくなればビジネス利用客から観光客までもっと確実に人が集まる空港になると思います。
—福岡の新空港問題についてはどうお考えですか
三原 よく同じ質問を受けますが、私は直接的に意見を述べる立場にはありません。
新北九州空港は福岡との役割分担を進めることも可能だし、独自に路線や運行時間の拡大を図っていく必要があります。
道州制も見据えて、狭い日本の国土をどう活用すべきか、新空港を作るとしても20年かかると言われる中で財政状況を考えながら、政官財と主権者である住民がよく議論を重ねる以外ないと思います。
—スターフライヤーについてはどういう評価ですか
三原 堀社長は非常に頭がいいし、着眼点が良かったと思います。自分の資金力がなくても地元自治体や企業を本気にさせてここまでの航空会社を立ち上げられたのは素晴らしいでしょう。
私も重渕会頭といっしょに九経連の鎌田会長や麻生知事、県議会議長にSFの立ち上げを応援していただくため回っていったものです。
これまで地方発の航空会社がうまく経営できてない状況を見てきていたので最初はリスクが高いと言われましたが、途中から北九州空港を拠点とする航空会社の必要性を理解していただき、支援側に回っていただくことができたのです。
麻生知事も北九州空港に大変ご理解をいただき、空港までの橋の通行料を無料にしてくれたことを大変感謝したいと思います。
安い駐車料金と通行料無料が海上空港成功のポイントになったと思います。
—新空港ができて苅田の町に大きな影響はありましたか
三原 もともと苅田町には多くの元気な企業が進出してくれていましたので、びっくりする変化はありませんでした。
苅田町は日本の市町村で唯一トヨタと日産が同居するところで、空港が近く便利になり企業活動が活発化する材料になったとは思いますが。
昼間の流入人口が約5,000人もある上、若い世代が働く場所も多いので各地の商工会議所からの視察は途切れません。
日本の最高技術を学ぶため500人以上の外国人が苅田の企業に在籍しています。西日本工業大学の留学生も多くいます。海外路線が増えればもっと増える可能性があるかもしれませんね。
—新空港ができ、今後苅田町発展のために何が必要ですか
三原 日本は少子化が進み人口も減っている。世界の中で日本経済の競争力も落ちてきている。そうした中で狭い日本の国土は道州制ぐらいの単位が、一番地域や人が活性化されると私は考えます。
人が元気に生活していくためには、まず働いて稼ぐことが必要です。苅田はその働くための場である元気な企業を、九州の中で、日本の中で一番引っ張ってきた歴史を持っています。
九州の玄関口、アジアビジネスの中心として北部九州の可能性は非常に高く、苅田町という小さな視点でなく、大きな絵を描きながら人や企業が元気に集まるためにどうしていけばいいのか考えることが重要でしょう。
先人や関係者各位の明で人の移動と物流の素晴らしい拠点が産まれました。
今後も九州の将来の絵を描く中で、空港とともに歩み、誇れる町作りを続けていかなければならないと考えます。
[プロフィール]
三原 晴正 氏
1930年7月10日生(77歳)
明治大学専門部商科卒業
三原グループ代表
1968年に苅田商工会議所会頭に就任、商工会議所の会頭として国内最長期間を歴任
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