日本をせんたくする
このほど、イギリスのエコノミスト誌が「JAPAiN」という特集記事を発表しました。「JAPAN」に「i」を加えて「日本の苦痛(PAiN)」という合成語をつくって表題にしたのです。停滞するニッポンに対する海外の厳しい目を代表しています。同誌は、「苦痛に満ちた日本」に転落した究極の責任者は「何も決められない政治家」だと指摘しています。日本では、国の現状を憂うる各界の同志が元三重県知事の北川正恭氏を中心として、「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合(通称せんたく)」を立ち上げました。「せんたく」は「地域・生活者起点の日本変革運動を立ち上げ、その行く手を阻む制度や政策を踏み越えすべての仕組みをゼロベースで見直す『この国の洗濯』を呼びかけていく。」と高らかに宣言しました。
かつて、坂本竜馬は「日本を今一度洗濯したく」と言いました。この言葉は文久3年(1863)6月29日、姉乙女に書いた手紙の中にあります。文久3年といえば、竜馬が勝海舟に入門した年ですから、「日本を洗濯する」という発想は、勝の思想に影響されたものと考えられます。勝は幕臣ながら日本のためには幕府が滅びてもやむを得ないと考えていました。「党益あって国益なき」がごとき当今の政治家には、今こそ「日本」に思いをいたしてもらいたいものです。勝の指導を受けた竜馬は、「藩益よりも国益」の考え方に至りました。これから以後の竜馬は、常に「日本」を意識して行動することになります。
「国民連合せんたく」は、今年中に行われるであろう総選挙に向けて、志をともにする各界の同志とともに既得権と戦う「平成の民権活動」を展開すると宣言しています。わが国で自由民権運動が起こったのは明治の初期です。その立役者が板垣退助です。板垣は行動する民権家でした。征韓論論争に敗れ参議の職を辞した板垣は、明治6年(1873)、愛国公党を結成し政府に民撰議院設立の建白書を提出しました。この建白が政府に民主的改革を求める自由民権運動の始まりでした。国会開設のほかに地租軽減などを訴えていった板垣らの活動は全国的な広がりを見せていきます。これに対し政府は集会条例を公布して結社の自由を制限しました。
明治14年(1881)自由党の総理に就任した板垣は本格的な遊説に乗り出します。板垣の説く「自由」は明治の世に大流行しました。自由餅、自由せんべい、自由水などの品物が次々につくられました。明治15年(1882)4月6日、岐阜に遊説中の板垣は、反民権主義の小学校教員に刃物で襲われ傷を負います。「板垣が刺客に刺された」との報が各地に伝えられると、各地の自由党員はこぞって岐阜にかけつけ政府弾劾の叫びを挙げました。このとき、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」の名文句を残します。明治の血は熱かったのですね。
「国民連合せんたく」は、「平成の民権運動」を推進するとしていますが、「誰が何をどうするのか」は、いまの時点では見えてきません。先ずは誰かが、立ちあがり行動しなければなりません。竜馬も板垣も一人立って「日本を洗濯」しようとしたのです。自ら動くのが「洗濯」で、目の前にある何かを選ぶのが「選択」だとすれば、「国民連合せんたく」が究極的に選ぶのは「洗濯」でしょうか、それとも「選択」でしょうか。でも、「選択」には熱い血は感じられません。何よりも確かなことは「選択するのは国民」だということです。 つづく
小宮 徹
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