西郷の島流し ~徳之島から沖永良部へ~
安政6年(1859)9月、先々代薩摩藩主斉興が死去した。藩はすでに忠義の世となっていたが、斉興の子であり忠義の父である島津久光が、藩主の若年を理由に乗り出して藩政の実権を握った。久光は、斉彬の遺志を継いで公武合体を唱え、武力を背景に中央への進出を考えていた。そのため、かつて斉彬を推戴した誠忠組にも一応の理解を示し、小松帯刀を家老側役に大久保利通を小納戸に登用した。久光の公武合体工作を進めるためには、公卿や諸藩大名など四方八方への根回しが必要だった。しかし、薩摩に西郷以外には中央との人脈はなかった。ここで、大久保と小松が「天下に名の響いた西郷がぜひ必要だ」と久光に説いた。西郷には好感を持ってなかった久光も、しぶしぶ承諾する。召還命令が奄美大島の西郷のもとに到着したのは、文久元年(1861)12月20日だった。
翌年の2月11日、鹿児島へ帰ってきた西郷は、斉彬の墓前に詣でた後、久光の前に出て、所見を述べた。「上洛は未だ機が熟せず、かつ公は諸藩の上に立つ器ではないうえにすべてが不用意であります。」との論難である。言外に、「公は斉彬には及びもつかない。身のほどを知るべき」との意趣がありありだった。家臣の面前で面目を失った久光の心は煮えたぎった。かろうじて自分を抑えた久光は、西郷に先発して下関で待機するようにと命じた。ところが下関に着いた西郷は、京洛における尊攘派の挙兵を食い止めるため無断で伏見へ出発してしまった。ついに堪忍袋の緒が切れ激怒した久光は西郷への捕縛命令を出す。追捕の上、鹿児島に護送された西郷には徳之島への流罪が決定した。前回と違い、今回は君命による罪人としての島流しである。6月18日、大島三右衛門と改名した西郷は徳之島の岡前という村に着いた。現在では鹿児島から空路約1時間、船便では一晩で着くが当時は直行便はなく、薩摩から離島をめぐりつつ島に行き着くのに半月もかかった。
かねてから西郷のことを聞き及んでいた島の代官は好意的に向かえてくれた。また村の惣横目の琉仲為は、すっかり西郷にほれ込み手厚くもてなした。後に、琉仲為の長男琉仲祐は西郷と師弟の契りを結んだ程である。西郷は塾を開き、子供たちに学問を教え相撲をとる毎日だった。当時、島民たちは砂糖キビ以外の作物の栽培は一切禁止されていた。その他の品物はすべて砂糖キビとの交換だったが、交換比率は島民に不利に設定されていて、加えて「抜糖死罪令」という恐ろしい法律まであった。西郷は役人に強く改革を促した。こうして恭順の意を表さない西郷の噂は、久光の耳に達し彼の不快感を増幅させる。久光は家臣たちに「徳之島では流罪にならないではないか」と言ったという。8月26日、大島から愛加那が二人の子供を連れてやってきた。その同じ船に藩の命令を伝える使者が乗っていた。妻子との再会の祝宴の夜に沖永良部島への遠島命令が伝えられたのである。沖永良部への遠島は切腹に次ぐ重罪である。しかも座敷牢に閉じ込めよとの厳命が付されていた。久光の悪意がそくそくとして西郷の胸を打つ。しかし西郷は微塵もそぶりには見せず大島へ帰る愛加那たちを見送った。
閏8月14日、西郷は沖永良部島の和泊に流された。ここでは大島吉之助と改名する。牢屋は壁なし雨戸なしの牢格子で雨風の吹きさらしである。如何に温暖な沖永良部といっても夜は冷える。日のあたらない一室に閉じ込められ、食事は冷や飯に塩だけが与えられた状態では、いかにも早く死ねといわんばかりの処置である。風土病のフィラリアにも感染した西郷は見る影もなく衰弱していった。あまりの惨状を気の毒に思ったのが土持正照である。彼は役人の許可を受けて牢獄の改造に着手し、完成するまでの間自宅において、健康の回復をはかった。出来上がった家は、今度は南向きで風呂があり、通気採光にも気が配られていた。
この島で西郷は、同じ流罪人の川口雪蓬(せっぽう)と出会う。雪蓬は島津久光の写字生として仕えていたが、久光の秘蔵の書を質に入れて酒手としたために、ここに流されてきたのである。陽明学を学び書道の達人でもあった雪蓬との出会いは西郷に良い影響を与えた。西郷は雪蓬に啓蒙され大いに読書に励んだが、とくに雪蓬が勧めた細井平州の「櫻鳴館遺草」に大きな影響を受けた。こうして、彼の「天の心をもって万民を愛護する」という「敬天愛人」の思想は、沖永良部から、はっきりした形となって現れてくる。文久3年(1863)7月2日、前年の生麦事件を契機とした薩英戦争が勃発し事態はめまぐるしく変化した。再び西郷の出番が到来したのである。藩の有志による赦免願いが聞き届けられ、迎えの船が沖永良部に現れたのは元治元年(1864)2月20日のことだった。 つづく
小宮 徹
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