6年間の佐賀市長としての自己評価
■佐賀市長6年間の自己評価
先週まで、9回にわたって私が佐賀市長として行ってきたことを書いてきました。少しまとめてみますと、自民党の中の古い体質の方と社民党を同時に敵に回すと、議会にかける予算も条例も全て否決される恐れがありました。そこで、バブル的な事業の後始末を優先させ、それに目途がついてから、本格的な行政改革に取り組みました。
この行政改革には、ガス局の売却のように市役所が行う必要のないものは廃止・売却するだけでなく、都市計画のように各種計画を人口の減少に時代に見合ったものに変えていくという作業も含まれていました。
この二つの作業が思いのほかに早く進んだので、市長就任後3年目頃から、子育て支援と教育の充実、建設業に代わる産業振興に取り組んできました。子育て支援は、保育所の定員を大幅に増やすなど、ある程度の目標を達成できたと思いますが、教育の充実については、とにかく佐賀県庁の妨害で、あまり成果を出すことが出来ませんでした。
財政面については、一期目の4年間は公共工事の金額を絞りませんでした。過去のデータを確認してみると、昭和62年以来一貫して借金が増え続けていて、平成4年頃は200億円程度だった借金残高が、平成11年には500億円と急増していました。
100億円をコストダウンしても、ごみ焼却炉の建設のために150億円の借金をせざるを得ませんでしたので、借金は平成15年には700億円近くまで膨らみましたが、二期目に入ってからは、財政再建路線に踏み出し、平成17年3月末の時点では借金も670億円程度に減らすことが出来ました。これは、18年ぶりのことでした。
しかも、貯金も大幅に増やして、私の任期の最後の頃には、100億円を超える貯金が残りました。私の落選後、この貯金を、収入不足の穴埋めに使っているという話ですが、このお金は、私にとっては、教育振興や建設業に代わる産業を育てていくための大切なお金でした。
私が最も大事だと考えていた教育などは、内容を磨き上げるところまでは行きませんでしたし、県庁との戦いにも勝てなかったので、点数をつけるとしたら70点というところでしょうか。あと、四年させてもらえれば、市営バスも民営化できたし、水道も大幅民間委託できたし、職員ももっと減らせたと思います。
しかし、選挙には負けました。市民は緩慢な衰退を選択されたなと思いますが、これが民主主義なのです。選択の結果は、わかる人にはわかると思います。ただ、佐賀の地元紙は、いやなことは書かないので、住民に伝わることは無いと思います。
なお、佐賀市での取り組みの概要を書いた本が本日出版されました。是非読んでみてください。
『なぜ、改革は必ず失敗するのか』WAVE出版社 税込1995円。
下記の私のHPに目次と、内容を多少詳しく書いていますので、ご覧いただけると幸いです。
[ http://www.kinoshita-toshiyuki.net/book.html ]
■選挙の構図
期目途中で市町村合併により選挙となりました。人口16万人の佐賀市が、合計4万人の人口の三町一村と合併するのですから、通常は吸収合併ですが、対等合併でないと合併しないと町村側の意向に配慮して、対等合併を選択し、選挙となりました。
選挙の構図は、行政改革に反対する社民党が元水道局長を擁立し、それに既得権益擁護が狙いなのか自民党の推薦がつき、行革反対の共産党も独自候補を立てないで事実上相手方を応援するという不思議な構図でした。地元新聞は、元自治労の幹部であることや自民党が応援していることを、ほとんど報道もしませんでした。
こちらはボランティア選挙方式で戦いましたが、私も含めた陣営側に油断がありました。相手は、私が使った水道局の局長でしたが、改革をしない人でしたので、能力をわかっていた私は、油断してしまいました。相手がどうこうというより、強大な55年体制と戦うのですから、本来油断などできるわけはなかったのです。
また、改革の持つ本質的な構造で、改革はその効果が大きければ大きいほど敵が出来ます。このあたりを乗り切る力が必要でしたし、対策もある程度はわかっていたのですが、少し迷いがあってその手を打つことは出来ませんでした。
東京を活動の拠点にしてからの2年間、私のところにも志を持った人が相談に来ることがありますが、彼らには「改革者はいずれ倒れる」という改革の持つ本質的な構造と、それの乗り切り方を伝えています。これは、私にとっての貴重な敗戦の教訓であり、今、ビジネスをするに際して、とても役に立っています。
■役人出身の限界
もう一つ感じていた限界は、役人出身の市長としての限界でした。行革や福祉、教育については、打ち手が明確にわかるのですが、産業振興だけは中々うまく行ったという実感がなかったのです。もちろん、普通の市長さんよりは、はるかに実績を上げたと自負しています。
私が就任したときは半分以上売れ残っていた工場団地は、小糸製作所の誘致などにより完売の目途が立ちましたし(その後、完売したそうです)、佐賀城下ひな祭りなども定着しましたが、それだけでは建設業に代わる産業とはなりません。どうしたら都会に出た若者が佐賀に戻ってきても良いな、と思わせるような企業を作りあげられるかが悩みでした。
落選後の2年間の民間での経験で、その悩みの原因が何であるかを理解できました。それは、非常に単純なことで、資金繰りも、資金調達も、金利も、名もないベンチャー企業が、大企業には相手にされないことも、私自身が何も知らなかったからです。要するに、自分でお金を稼ぐ経験をしていないと、そもそも産業振興などは出来ないということなのです。
民間の経験しかない人には意外でしょうが、役人は資金繰りや金利のことなどほとんど考えません。なぜなら、黙っていてもそこそこに税金が入ってくるからなのです。だから、耐震偽装問題で制度が変わって、建築確認申請が遅れても、そのことで会社が潰れるなどとは、役人は想像すらしていなかったでしょう。
私は、その後、拠点を横浜に移し、ベンチャービジネスの経営に参画するとともに、各地を講演でまわって自治体にアドバイスなどもしています。ひょんなことから夕張市立総合病院の経営を引き継いだ医療法人「夕張希望の杜」の応援をしており、次回は、夕張のお話などをしてみたいと思います。
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