北京オリンピックが開幕した8月8日、グルジア軍が南オセチアに侵攻しました。南オセチアはグルジアの領内にありながら自治州としての独立を宣言していて、それを認めないグルジアとの間でこれまでも紛争が絶えなかったところです。グルジアは旧ソ連解体のとき独立した国ですが、そのときからアメリカの支持を背景に反ロシアの立場をとっていました。グルジアの中の南オセチアは、ロシアの後押しを受けて一方的に独立を宣言し、国家の中の国家としてグルジア政府の支配が及ばない状況が続いていました。今回はグルジア軍が先に軍事侵攻したのですが、ロシアも間髪を入れず軍隊を増派して武力衝突に至りました。南オセチアを救うという大義名分を得たロシアは、自治州を越えてグルジア領内まで侵攻しました。
競技としてのオリンピックが始まったのは前776年のことです。主催はエリス国(ポリス)でした。このころのギリシャは、ポリスの分立によって戦争の絶え間がない世界で、4年ごとに行われる夏のオリンピックでは選手や見物人の安全のために、軍隊の通過や駐留はもちろん、武器を携えた個人も一切入国が禁止されるようになりました。交通の安全は主催国によって保障され、競技に参加する国では、期間中は一切武器は手にしてはならず、死刑の執行や訴訟もできませんでした。この「聖なる休戦条約」が、古代オリンピックを1200年近くにわたって支え続けた原動力になったのです。
前490年の第一次ペルシャ戦争のことです。スパルタでオリンピックが開催されていたとき、ダレイオス大王率いるペルシャ軍4万人がアテナイに襲いかかってきました。援軍を要請されたスパルタは「聖なる休戦条約」の掟によって軍隊を出すことができません。アテナイ軍は単独で戦い、マラトンの奇襲でペルシャの大軍を退けました。このとき勝利の知らせをいち早くアテナイのアクロポリスに知らせるべく伝令を走らせました。マラトンからアテナイまでの42.195キロをひた走ったフェイデイピイッテスは到着するや「我ら勝てり」と言ってそのまま息絶えたのです。この間も、オリンピック競技は何事もないかのように続けられました。現代のマラソン競技はこの42.195キロを走ります。
ペルシャは非ギリシャ世界の国なので、「聖なる休戦条約」には制約されません。このころ世界は一つではなかったのです。迎え撃つギリシャ世界はぎりぎりのところで掟を守りました。北京五輪の開会式で、国際オリンピック(IOC)のロゲ会長は「(五輪のテーマの)一つの世界、一つの夢。今夜の我々は、まさにそうした存在なのだ」とスピーチしました。グルジアもロシアもオリンピックの参加国です。しかし、オリンピックの外では「一つの世界」というテーマは無視されました。ロゲ会長も武力衝突にふれることはありませんでした。「一つの世界」は会場の中だけだったかのごとくです。
開戦を最初に聞いたグルジアの男子選手は、「多くの人が死んだ。誰か戦争をやめさせて」と叫び、ロシアの女子選手は「古代オリンピックでは、停戦したというのに、開幕と同時に戦争が始まるなんて」と憤りました。8月13日、女子ビーチバレーでグルジアとロシアが対戦したとき、試合前グルジアのペアがロシアのコートに入り、四人は笑顔で抱き合いました。試合は大接戦の末、グルジアが2-1でロシアを降しました。試合後の会見で、グルジアの代表クリスティネ・サンタナ選手は「どんな国も戦わないで」と訴え、ロシア代表のアレクサンドラ・シルヤエワ選手は「紛争地には私の知人、友人もいます。五輪が政治に染まり残念です」と語りました。本来はロゲ会長がいうべき言葉を二人が代弁しました。
その後のグルジア紛争ではロシアが強硬路線をとり、欧米もこれに対抗して新しい冷戦の危機が懸念されています。武力によって強引な統一を図ろうとしたグルジア政府の責任も重大ですが、このときとばかりに応戦したロシア政府の責任も見逃すことはできません。どちらもどちらなのです。どんな形でも戦争はごめんです。庶民は「聖なる休戦条約」のその先の「確たる停戦条約」を待ち望んでいるのです。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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