明治元年(1868)、伊藤博文が兵庫県知事に任命されました。知事といえば大名格ですから、弱冠27歳の伊藤にとっては破格の出世でした。彼はその後順調に出世して、明治4年(1871)には岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察します。このとき伊藤は、サンフランシスコで各界の名士を前にして新生日本の未来について英語で演説を行いました。「わが国旗の赤丸は、いままさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります。」日本人がはじめて公的な立場で行ったこのスピーチは「日の丸演説」として名を馳せました。
視察団に参加しなかった大隈重信は、留守政府を担うひとりとして行政改革を進めていきます。明治6年(1873)、参議兼大蔵卿に就任した大隈は、政府収入の安定化をはかるべく地租改正に着手したほか、財政に予算決算制度を導入し会計検査院をも創設しました。対する伊藤はこの年に参議兼工部卿に就任しています。憲法制定と国会の開設を求める民権運動が大きな高まりを見せていたこのころ、大隈がイギリス型議院内閣制の採用を主張したのに対して、伊藤はドイツ型欽定憲法の制定を唱えました。二人の意見は鋭く対立しましたが、大隈に福沢諭吉などの三田派と組んでの政府転覆の疑惑が生じるに及び、伊藤は御前会議に大隈罷免の議題を提出、大隈を参議の座から退けるとともに大隈系の高官たちをも追放してしまいます。いわゆる明治14年の政変です。
翌明治15年(1882)、下野した大隈は都市部の商工業者や知識人を地盤とする立憲改進党を誕生させ党の総理に就任します。その前年には板垣退助が自由党を結成していました。自由党は、農村部を地盤にして主権在民のフランス流改革を説きました。ともに自由民権主義を背景にしていましたが、両党は政治方針の違いもあって仲はよくありませんでした。自由党が改進党を「三菱と手を組み腐敗している」と非難すれば、改進党は「板垣総理の海外渡航費が政府筋からでている」と自由党を攻撃しました。結局、両党は明治17年(1884)、内閣発足前に解散してしまいました。
この間伊藤は、憲法制定のために設置された参事院の議長の職にありました。両党の抗争に中立の立場にいた伊藤は初代の内閣総理大臣に就任します。このとき政敵の大隈は「伊藤が野心にかられることなく、政治家としての責任を回避せず、国家のために力を尽くした」ことを高く評価しました。伊藤もまた大隈の外交手腕を買って、後に外務大臣に起用しています。政治的には対立した二人でしたが私的な友情は終生変わりませんでした。
明治15年(1882)、大隈が東京専門学校(現・早稲田大学)を開校したとき、伊藤は大隈の見識を絶賛する演説をしました。明治42年(1909)、伊藤はハルピン駅頭で暗殺されましたが、このとき、めったに涙を流さない大隈が人前もはばからず大泣きに泣いたそうです。はるか満州に陽は沈み、国家の存立を賭した二人の政争は、一掬の涙とともに幕を閉じました。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
※記事へのご意見はこちら