公職追放で袂を分つ
松下幸之助と井植歳男が、何故、決別したのかは謎に包まれている。
敗戦が両者の仲を引き裂いたのは確かだ。戦時中、松下は軍部の要請で松下飛行機、松下造船を設立して軍需産業に乗り出していた。そのため、GHO(連合国軍総司令部)から松下電器は財閥解体を、社主である幸之助をはじめ常務以上の全役員が公職追放の指定を受けた。
幸之助は財産を凍結され、生活費の制限を受けた。「寿屋(現・サントリー)の鳥井信治郎さんなど何人かの友人に、月々の生活費を借りて回った」と幸之助は述べている。
会社解体のほうは三井や三菱のような財閥とは違うということで解除されたが、公職追放のほうでは社長退陣を求められた。このとき、松下電器の専務で松下造船の社長を兼務していた歳男が「幸之助さんが残ってください」と歳男が辞任を申し出た。歳男が幸之助を庇ったという美談仕立てで語られている。
その一方では、公職追放になるのを恐れた幸之助が、歳男を身代わりにして追放したとの、噂話が語り継がれることになる。歳男も幸之助も、この件については、口をつぐんでいるので、その真相はわからない。その後の歳男と幸之助の絶縁状態を見れば、この2人の間になんらかの確執があったことは間違いないだろう。
松下を去った歳男は、1947(昭和22)年に三洋電機製作所を個人創業。幸之助が餞に製造権を譲った自転車用発電ランプの製造をはじめた。それが飛ぶように売れて、1950(昭和25)年に株式会社に改組。それを機に松下に残っていた人事部長の祐郎、常務製造部長の薫を呼び戻し、井植3兄弟はここで「松下」と完全に訣別するのである。(敬称略)(日下淳)
つづく
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