脱税の調査に協力していたら
「仮に」とか「例えば」などという言葉を弄して過去を振り返ってみても、虚しくなるだけである。しかし、城戸氏が当局に対し素直な姿勢で応じていたら、逮捕されることもなかったであろう。逮捕されるという事態を免れていれば、肺がんが発生することもなかったかもしれない(税務査察との長期にわたるやり取りのなかで、過重なストレスが溜まったものと想像する)。推測ではあるが、城戸氏が否認する立場を貫いたということは、ある種の宿命であったともいえる。彼の人生観からして、また当時、成功の余韻に浸っていた同氏にしてみれば、当局に対し「悪かった」と頭を垂れることは屈辱以外の何物でもなかったのだ。
また城戸氏は、「脱税行為は犯罪ではない。後で追徴金を納めれば、世間は許してくれる」という古い観念に取りつかれていた。残念ながら時代が変わり、価値観が激変していることに対して疎すぎた。「脱税隠蔽工作は犯罪そのものであり、許されるものではない」という意識が、社会共通の規範になっていたことにあまりにも関心がなさすぎたのである。作州商事が現金商売のビジネスであれば、厚顔無恥な態度のままでも経営可能であっただろう。しかし、デペロッパーは、銀行からの資金調達が不可能になれば、経営がアウトになる宿命の業種である。金融機関は世間の目を気にして委縮し、犯罪者(脱税隠蔽工作者)との取引を中止する習性がある。国税と鍔迫り合いをしていたその先に、「地獄が待っている」(金融機関が煙たがる)ということへの嗅覚が働かなくなっていたのは、城戸氏が「自分は神様になった」との傲慢的な心境に陥っていたからだろう。
企業活動は公的なもの
城戸氏が逮捕された2006年の作州商事の決算は、売上200億円に達した。1993年以降組(前のバブル破裂時代に侵されていない新興勢力)では、作州商事が成功の第一人者であることは周知のことであった。またこのシリーズで10回にわたって「城戸氏=神様をおかしくした者ども」をレポートしてきたので、本人が天上に舞い上がっていったいきさつについても、理解されるであろう。また、同氏が常識を逸脱していった一面に対しても、多少は同情できるかもしれない。
だが、城戸氏が信念としてきた「事業経営の第一義の目的は、営利追求にあり」(経営は私的活動という哲学)は時代錯誤だった。この歴史的価値観の激変に無頓着であったことが、同氏の致命的弱点になったと結論づけられる。「企業活動は公的なもの」が優先するのだ。シンプルに表現すれば、作州商事のマンション供給という企業活動は公的なものでなければならぬ。要は購入者に感謝されることである。「その感謝の対価として儲けが頂ける」というのが、現代の商売に対する価値観なのだ。
「商売では儲けのみありき」という思考では、世の中を歩けなくなっているのだ。だからこそ、門松のマンションを購入したお客に対して「我が社に非はない」と裁判所で全面対決した作州商事は、反社会的な存在と化していたのだ。まず先に非を認めて、その後に関係業者らと責任負担の割合について交渉するのが、常道の策だったはずだ。(続く)
※記事へのご意見はこちら