好条件を活かした田園都市をめざして
変化に対応できる柔軟な姿勢と行財政の基盤を確立していく
小早川理念は今後も活きる
児玉
この度は新町長就任おめでとうございます。職員から町長になられてみて、現在のお気持ちや久山をどうご覧になっておられますか。
久芳
久山町は、1970年、当時の小早川町長が開発による都市化を抑制し、生活の利便性よりも恵まれた自然環境を保全し、人の健康と人が真に求める住環境を優先させるという崇高な理念で土地政策がスタートしました。その理念は歴代の町長も継承してこられてきたと思っていますが、このことは、特に21世紀は環境の時代、必ずこれからもっと活きてくるものと思います。
73年以降の日本列島改造ブームのとき、周辺自治体が都市化、発展していく中で久山町は取り残されたのではなく、むしろわざと時代に遅れながらの町づくりであったと思います。このことは、日本がただひたすらに生活の向上や利便性を求め急速な発展を成し遂げた挙句に、環境破壊や暖かい人間性を喪失した社会の構築が進もうとしている現状を思うと、必ず評価されるものだと思います。
久山町はその当時、そのことで「鎖国主義」とも言われてきましたが、決して閉鎖的な町にするということでは無かったと思います。将来のある時期に切り替えをしたのが、1989年の「田園都市構想」でした。1万3500人からマックス1万5,000人が理想的な人口規模ということでした。
61年から九州大学と進めてきた成人病検診の開始―健康プロジェクトと、大きなプロジェクト(ゴルフ場)を両立させるというものでした。
久山方式の誕生
久芳
60年に全町を都市計画区域とし、96%を市街地調整区域に指定する政策は「久山方式」と呼ばれ、乱開発を抑制し自然環境保全に大きな役割を果たしました。しかし一方で大きな誤算は、都市計画が「土地を守る」ことに重点が置かれたすぎたことです。規制をかけて市街化区域を工場団地の飛び地に設定して、町の「へそ」を作らない変則的なものになりました。96%の市街化調整区域を町主導型で発展させていこうという考えでしたが、実際は都市計画法の運用が市町村の思うようにはできなくてうまくいかなかったということです。
そこで89年に基本構想を作り、町外から住民を受け入れていこうとしたときに調整区域の線引きの見直しができない、土地利用の緩和ができない、ということになり、人口政策がうまくいきませんでした。その意味では、発展がそこで停滞したということが言えます。
糟屋郡の他の町がベッドタウン化していく中で、よそとは違うものを久山町は模索してきたといえます。87年に集落地域整備法ができたのも久山町をモデルにしたもので、いま区画整理を進めている上久原を法律のモデルとして、その地域を題材にした法律でした。調整区域へのスプロール化(無秩序な開発)を防ぐために、初めて農水省と建設省による共管の法律を作って調整区域の集落でも土地利用の活性化を図ると共に、農地を守るために土地の線引きをして、将来的に農地として残す区域と、宅地にすべき区域を策定するための地区計画の導入が出来るようになりました。わたしたちもそれに取り組んで区画整理をしたりしましたが、農水省と建設省の縦割り行政のために翻弄された形になりました。そのとき小早川氏は、この手法で8つの集落を整備しようと各集落に600万円ずつ補助金を出して、集落で自主的に町づくりの計画をつくらせました。
ところが、集落地域整備法により成功したのは上久原地区だけに終わりました。
児玉
あのときは小早川氏でもそこまで考えが及ばなかったことと思います。核家族化のスピード化が大きな原因のひとつでしょうね。
地域の特性を活かした産業の創出
久芳
パラマウントの進出予定地だった地域に企業団地建設の構想を進めています。地権者には買収という形で進めたいと思っています。この地域はもともと地質的にも農業には向いていません。政府がミカンの栽培を奨励をしたときに、開墾してミカン山にしていましたが、政府からミカンはやめなさい、ということになって取り止めとなり、跡地活用の請願が出たのがきっかけでした。
児玉
椒房庵(しょぼうあん)の河邉社長のような起業家があと4~5人、ここ久山から発信すれば大きな雇用が生まれると思いますが。
久芳
椒房庵(しょぼうあん)さんは、久山の環境にぴったりの事業をされていますし、猪野ではレストラン茅乃舎(かやのや)も経営されています。久山には山田と久原がありますが、久原は福岡市に抜ける道路沿いに流通系企業が進出するなど都市化の流れが来ています。また宅地整備も進めており30、40歳代の流入もあります。問題は猪野や山田地区が行き止まりになっていることです。とくに猪野地区については伊野神宮があり風光明媚でホタルも有名ですし、茅乃舎もあり、猪野から上久原にかけての地区には久山のよさを活かした産業ができないものかと思っています。いま上久原の白山で遺跡調査が進められています。中世の鎌倉時代の遺跡で、国の文化財指定の手続きを進めています。
商業施設はトリアス久山があります。住民のアンケートでもトリアスができたことで買い物の不便が解消された、という声が多く、いままで福岡市に行かなければレジャーなどは楽しめませんでしたが、トリアスで十分まかなえるようになりました。
久山町はもともと米作中心の農業で野菜はやっていませんので、今後おいしいお米を売り出していくことが大事だと思います。農家も2~3反の規模ですので、農業だけではやっていけません。しかし農家を守らないと町の環境は壊れていきますので、農地の一部も資産運用ができるような土地利用の見直しをすることと、もうひとつは米を中心にした産業興しをしていけたらいいのではないかと考えています。米の流通も自由化されていますので、工夫して生産者の顔の見える流通・販売を通して60歳代を中心にした雇用の場の確保を促進させるための研究をしたいと思っています。いま盛んに行なわれている「道の駅」のようなものを沿線でぜひ実現できればと思っています。福岡直方線沿いの「久山植木」はにぎわっていますので、そうした流れを活かした事業は可能ではないかと思います。いろいろ考えていくと面白いものがあります。厳しい時代ですが準備に怠りが無いようにしたいと思っています。
つづく
※記事へのご意見はこちら