赤字を食い止めるのは簡単
「名門麻生セメントの看板にぶら下がっていてはすぐに赤字になってしまう。その打開策をどうすればよいか」と自問自答していたところ、熊本麻生生コンに出資した1年後の1988年(昭和63)7月に「社長になってくれ!!」と要請があった。味岡社長は2、3日間構想を練ったが、躊躇することなく「干渉せずに経営を任せてくれれば、応じても良い」と返答した。麻生側は「いやー、好きなように経営をやっていただきたい」と、二つ返事で了承した。
まず、社内改革の基本として、常にお客の顔と向き合うことを重視する社風の確立から着手した。お客のニーズに応じるために、まず、早朝配達を実行することから始めた。夕方の配送もOKにした。工場内の整理整頓を厳しく奨励し、従業員の身だしなみについてもうるさく指導した。「お客様に悪い印象を与える言動や風体は改めようや!!」という大義名分を盾に、改善を断行し、貫徹を期するようになってからは、社員の意識が瞬く間に変わり始めた。「軌道に乗せるまでに、時間はかからない」と直感した。
結果として、10年間赤字を垂れ流してきた工場は、収益を生み出す組織へと様変わりした。麻生セメント関連の生コン工場は全国に点在しており、毎年業績審査コンテストが行なわれていたが、味岡社長が引き受けた熊本の工場は優秀な成績を収め、連年、表彰の対象となるようになった。2003年(平成15年)、同工場を完全に買い取り、熊本味岡生コンクリート株式会社として、グループの中核企業にすえた。恩人である麻生セメント(現在は麻生ラファージュセメント)には取引をするなかで恩返しをしようと思っていたが、諸般の事情により、現在は取引が中止されている。
組合の正常化を経験する
味岡社長は熊本県の片田舎にある人吉市の、そのさらに奥にある昔で言う免田町(現在、あさぎり町)から県庁所在地・熊本市に進出を果たした。その熊本の地にある2ヵ所の工場における出荷高が、年間ベースで12~13万立米(ピーク時)と、地場トップの実績を誇るようになったのは、当然、味岡社長の経営才覚に負うところが大きい。2000年に突入する時点では、「熊本のトップ味岡」という評判を定着させた同氏だが、「熊本市および周辺の同業者が結束して、組合を正常化できたからこそ商売繁盛できたのだ!! 自企業の利益だけを優先をさせていたら、互いに激しく競合し合うこととなり、共倒れしていたことだろう」と、至って謙虚な姿勢を堅持している。
熊本中央生コンクリート協同組合における経験によって、味岡氏の脳裏では「生コンの商いは共販あってこそ」という信念がますます強固になってきている。実際に、来年4月から生コン単価・1立米1万1,000円のところを1万3,600円に引き上げることが内定している。ところが大分地区は組合の機能が麻痺しており、1立米4,000円という非常事態に陥っている(このことについては、シリーズ(8)で触れる)。熊本市での成功体験を踏まえて、同氏の頭の中では「組合機能を正常化させていけば、どの地区であれ、生コンの製造・経営ノウハウは同じものだ。全国で100ヵ所の工場を掌握することが可能かもしれない」という壮大な戦略が描かれ始めている。(つづく)
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