九州一の森林王国
味岡和國氏に関する取材が完了し、連載も終了したものと思っていたところ、「重要な問題に触れていなかったこと」に気づいたので、最後に追加する。熊本県人吉市から田舎の更に片田舎にある元免田町(現あさぎり町)に本拠を置く味岡氏が、生コン業界の日本一になろうとの野望を燃やしていることを、10回にわたって報告した。ところが、この取材の過程で、味岡氏が「生コン業者日本一になる」という事業行為よりもより尊い、そして重要な使命を完遂させるため、不眠不休で努力していることが判明した。その事業行為とは、地元球磨地区の『山林の活用・町おこし』にまい進していることだ。
味岡氏は多良木町森林組合の組合長でもある。「山林保全こそが国を守る早道だ。そのためには、樹木の伐採と植樹を循環させる必要がある。我が故郷の山には40年あるいは50年ものの杉、ヒノキという財産が密集している。地球温暖化のストップ、資源のリサイクルという、現在の歴史的価値観にぴったりの国産材である。これらを有効に活用させるための伝道師としても、仕事をして行きたい」と抱負を語る。『山林復興』に寄与する行為こそは、まさしく社会的大義である。
人吉市から旧免田町、九州山脈の中枢にある市房山の麓を通過して宮崎県に入る。そして西米良町、西都市、最後には太平洋岸にある児湯郡高鍋町に至る交通ルートがある。戦前はもとより、戦後の昭和50年までは、このルートを国鉄バスの定期便が通っていた。要するに、森林経済道路の役割を担っていたのである。球磨地区一帯の山林は、戦前には、財閥企業が買い占めていた。同地区では、九州一の山林業が勃興していたのである。
昔は田舎では、山林金持ちがいわゆる旦那様として君臨していたのだ。昭和35年ごろから米材を中心とした外材が輸入されるようになり、国内製材業が衰退するに従い、「山林旦那」も消滅した。彼らは歴史的価値観の激変によって翻弄された階層である。時代は激変して「内地材の再活用」が叫ばれるようになり、内地材の活用は、「正義の旗印」となって行く。味岡氏は「故郷の活性化、国土保全」ということを、社会的貢献の一端として、担う覚悟でいる。
ユーザーの要望を担いうる、製材工場の建設
味岡氏は社会活動家ではない。経営者である。球磨地区の木材を全国に普及させるためには、まずユーザーの要望に応えることのできる体制を作ることが不可欠だ。そのために、どこにも負けない機能をもつ製材工場を建設した。この工場から、西日本の木材直需市場に搬入している。自社開発の燻製材には、高い人気が寄せられている。「健康に良い住宅」を売り文句にすることができるか否かは、木材の品質に左右される。住宅メーカーの担当者を集めた勉強会も定期的に組織している。
味岡社長は力説する。「日本が誇ることのできる資源といえば、森林資源しかない。この森林材を有効に活用すれば、戦略的輸出資源にすることができる可能性もある。中国政府の内需拡大策に便乗しつつ、日本の製材を輸出するビジネスにも、将来性がある。森林業がうまく循環して行くことができる目処がつけば、若者たちが田舎にUターンし、定着する時代が必ずやってくる。そうなれば、地方もおのずと賑やかさを取り戻すことになる」。同氏は「生コン屋の親父」という一面と、「森林業の復権」にかける社会活動家としての一面ももつなど、複雑かつ多様な顔を有している人物である。(これで本当に完結)
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