かつてアメリカのジョン・F.・ケネディ大統領は、日本人記者団の質問に「私が最も尊敬する日本人はウエスギヨウザンです」と答えた。ところが日本人記者団の方が上杉鷹山という人物を知らず、「ウエスギヨウザンって一体誰だ?」とお互いに聞きあったというエピソードがある。ケネディが鷹山に関心を持ったのは、鷹山が嗣子治広に「伝国の辞」といわれる治世の訓を残しており、この英訳をケネディが読んでいたからである。
「伝国の辞」は「国家、人民は私すべきものではなく、人民のために君(藩主)があるのであって、決して君のために人民があるのではない」という思想を記したものである。事実彼の藩政改革はこの理念で一貫している。フランスの人権宣言より4年も早くしかも封建の世の中でこのような考え方ができたということは驚くべきことである。この時空を超えた鷹山の生き方にケネディは自分の理想の政治家像をみたのであろう。
鷹山は彼が隠居してからの称号である。藩主として現職にあった時は治憲と名乗った。もともと治憲は日向高鍋藩の出であるが、上杉家の養子となってわずか17才の時に米沢藩の藩主に迎えられた。上杉家は謙信を先祖とする名門である。しかし関ヶ原の合戦で石田三成に味方したため、120万石の所領を30万石に減らされ、寒冷の地米沢に封じられた。移封に際して上杉家では家臣団の人員整理を行わず、120万石のときの人員をそっくり新領地に連れていったため、狭い米沢の地の人口は急増し、かといって新しい収入源の開発も行われず、たちまちのうちに米沢藩の財政赤字は膨れ上がりとどまるところを知らなかったという。
治憲が領主になる頃は、領地は更に半分の15万石となっていたが、そのうちに13万3千石が家臣団の給与総額であった。総収入の90%以上が人件費という経営状態だったのである。歴代の借金はかさみにかさみ、もうどこも貸してくれるところはなく、藩をそっくり幕府に返してしまおうと考える重臣もいたくらいの窮状であった。治憲はこの絶望的な財政的危機を乗り越えるために、若い情熱の限りをぶつけて藩政改革に乗り出そうと決意したのである。しかし、治憲のお国入りは最初から暗たんたるものであった。米沢領に入って最初の宿場は廃墟同然であった。税の重みに耐えかねた百姓達が、土地を捨て他国に逃散する時に、行きかけの駄賃とばかりに宿場を荒して行った結果である。
付近の集落は夜になっても灯一つない真暗闇である。油を買う金がないからである。人の心は荒みきっていた。主従は僅かばかりの薪を集めて野宿した。こうして藩主の最初のお国入りを迎えたのは、冬の冷たい野山だけでなく、凍りついた人の心だったのである。治憲は傍らの煙草盆の冷えきった皿を見つめながら何事かを考えていたが、突然目を輝かし、灰皿の中にあった僅かな残り火に炭を添え、フウフウと吹き出した。残り火は炭に移りやがて一つの火の塊となっていった。けげんな顔をして見ている家臣団に治憲はこういった。
「私は米沢藩の民を富ませるための改革案を持ってきたが、この国に入って絶望した。この国には人々に希望がなく、そのために何もかも死んでしまっていたからだ。いかなる良策も受け入れる国の方が死んでしまっていては何にもならない。しかしこの灰皿の中の残り火を見ているうちにこれだと思った。この残った火が火種になるのだ。火種が次々に新しい火を起こしていけば火は絶えることなくやがて大きな炎となる。その火種は苦労して江戸からついてきてくれたお前達だ。いまその胸に燃える火をどうか心ある藩士の胸に移して欲しい。その火が必ず大きな改革の炎となるであろう。私は、いま、その想いでこの火を吹きつづけていたのだ」
これを聞いた家臣達は感動した。そして治憲が持っていた炭火を受け取り、それを一人一人が新しい火縄に移した。やがて火縄の数は10倍にも20倍にもなっていった。その後この火縄を分けてもらい治憲と想いを一つにして改革に取り組んだ人々は火縄組と呼ばれた。彼らは荒地を開墾し、桑を植え、機を織り、絹製品や漆器などの特産物を作り出し、米沢藩の財政を次第に立て直していったのである。そして天明2年から4年間日本列島を襲った天明の大飢饉に際しても、藩内で1人の餓死者も出さずに見事に乗り切ったのである。
鷹山が振興した産業は、米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫りと、現在でもすべて健在である。この感動の記録は、童門冬二「小説上杉鷹山 上・下」(学陽書房)に詳しい。
小宮 徹/公認会計士
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