米ビッグスリー発の自動車恐慌が日本を直撃した。トヨタ自動車の2009年3月期の連結営業赤字は1,500億円の見通し。前期の2兆2,700億円の過去最高益から、ジェットコースターを一気に水面下に滑り落ちた。
想像を超えた急降下に、トヨタの幹部たちは呆然自失の態。自動車生産世界一に目がくらみ、舞い上がった驕りに天罰が下ったと反省しきりだ。トヨタ神話を崩壊させた未曾有の自動車恐慌に、前線に復帰した老経営者がいる。
不運続きの首脳人事
78歳。軽自動車メーカー・スズキの大御所・鈴木修会長は09年12月11日、8年ぶりに社長に復帰した。津田紘社長は健康上の理由で相談役に。世界的な自動車危機のなか、「私が先頭にたって立て直す」と陣頭指揮を執る。
それにしても、スズキの首脳人事は不運に見舞われてきた。津田社長の前任の戸田昌男社長(故人)は任期中に病気に倒れた。次期社長の大本命とみられていた鈴木会長の娘婿の小野浩孝・専務執行役員は07年12月に52歳で死去した。そして津田社長も健康不安から社長を続けることができなかった。
鈴木会長は超ワンマンの経営者だ。会長に退いたあとも、スズキの事実上のCEO(最高経営責任者)であり続けた。津田社長らはドンの顔色をうかがいながらの経営で、常に神経を使い、心労が蓄積していったのだろう。
後継者が次々と病魔に侵され、鈴木会長の異例の社長再登板となった。
百戦錬磨の勘ピューター
クロウト筋の間では、鈴木修氏が世界の自動車メーカーのナンバーワン経営者との呼び声が高い。そう評価されるだけに、この記事を読んだとき、サスガと納得がいった。『週刊東洋経済』(09年12月29日号)の『ハンガリーでも痛手、“新興国の王者”スズキに山積みの地政学リスク』と題した記事のこんなくだりだ。
〈「どうもおかしい」。2008年9月、鈴木修会長の“勘ピューター”が動いた。「科学的根拠はない。僕の経営はカンだから。でも、資料や人の話でどうも米国がおかしいから、在庫を減らそう」
(中略)「(在庫を)もっと減らせと言っている。造るのはいつでも造れる。米国西海岸でも15~16日で(製品は)届く。海を越えていくなんて大げさに考えて(在庫を厚く持って)いた経営が間違っていたということですよ」〉
在庫減らしは素早かった。同誌によると、08年3月末と9月末とを比較して、在庫を減らしているのは大手ではスズキ1社のみ。スズキが10%以上減らしているのに、日産が20%以上増やしているのとは好対照だ。
在庫減らしには、官僚組織の大企業では各部署の調整が不可欠で、そんなに簡単にやれることではない。「鈴木商店」と陰口を叩かれようと、トップの意志が即座に実行されるところにスズキの力をみることができる。
スズキは養子が経営を継承する伝統をもつ。「じいさん(鈴木道雄=創業者)がいて、親父(俊三)、叔父(實治郎)が養子に来て、僕(修)が4代目として、また養子に来た」。鈴木語録である。
修氏は、岐阜県で生まれた。1953年に中央大学法学部を卒業。飛騨の下呂町から浜松に出て58年鈴木自動車工業(現スズキ)に入社。2代目社長俊三氏の長女と結婚して29歳のときに旧姓の松田から鈴木姓に。78年に社長に就任以来、30年間にわたり、スズキのトップの座にある。
その後継者と目されたのが、経済産業省の官僚出身で、娘婿の小野浩孝だったが、急逝。養子経営の伝統に従えば、長男の鈴木俊宏・専務が次期社長となる可能性は低い。
他社が中国熱に取り憑かれる中で、インドに照準を合わせたのが修氏だ。スズキがインドでの現地生産を始めたのは82年12月。お膝元の静岡県でもトップシェアを取れないスズキがインドではダントツの1位(シェア50%)だ。
インドでの望外ともいえる大成功について鈴木氏は、「日本では下位だから、どこかで1番になりたかった」と語っている。
いまでは、インドにとどまらず、南米、中近東、アフリカにもウイングを広げ、「新興国の王者」なのである。北米市場一極集中型(今回これが裏目に出たわけだが)だったトヨタとの大きな違いだ。(つづく)
【 日下 淳 】