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東京レポート

CSKのドン・青園雅紘会長が引責辞任(下)
東京レポート
2009年2月18日 08:51

ワンマン体制を築いた青園会長

 事業規模が急拡大したため、大川氏は外部から人材を次々とスカウトしてきた。その1人が青園雅紘氏。福井県出身。滋賀大学経済学部を卒業して野村證券に入社。営業畑を歩き実績を上げ、42歳の若さで取締役に昇格。CSKの旧本社に近い新宿野村ビル支店の支店長を務めていた当時、大川氏と知り合った。
 青園氏は豪胆な性格で知られ、そこに大川氏が目をつけてスカウト。95年野村證券常務を最後にCSK副社長に移った。社長に就任するのは2000年6月。翌年の01年3月、大川氏が亡くなり、血を血で洗うような権力闘争に突き進む。青園氏のCSKでの歩みは抗争の歴史であった。
 大川氏は、インターネット時代のコンテンツ企業を標榜し、セガ・エンタープライゼス(現セガサミーホールディングス)やベルシステム24、亜土電子工業(現MAGねっと)、アスキー(現メディアリーヴス)などを傘下に収めた。
 権力を握った青園氏は、大川氏時代にグループ入りした企業群を切り離した。消費者を対象にした事業はグループから外し、企業間取引に事業を集中するというのが、その理由だ。これを大川路線の否定と受け取ったグループ会社の経営者や幹部社員は猛反発。大川氏は創業者としてのカリスマ性で求心力を維持できたが、スカウトされてトップに就いた青園氏は資本の論理で迫ったから、社内は一触即発の危機的状況に至った。

ベル24のクーデター事件

 青園氏に公然と叛旗を翻したのがコールセンターのベルシステム24の園山征夫社長(64)。島根県出身。慶応大学経済学部を卒業し、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。米ニューメキシコ大学経営大学院へ留学した後、転職、失業を経験。CSK創業者の大川功氏にスカウトされて、84年にCSKに入社。経営不振にあったベル24の再建ために派遣され、87年8月に社長に就任した。
 創業者の大川氏が亡くなると、個性の強い青園氏は野村人脈でCSKを固め、同年齢の園山氏とはことごとく対立。園山氏はベル24の社長を解任される前に、CSK離脱の挙に出た。世にいう「ベル24のクーデター事件」だ。
 04年7月に開かれたベル24の取締役会で、日興コーディアルグループを引受先とする第三者割当増資を決議。電光石火のクーデターで、ベル24はCSKグループから離脱し、日興グループ入りを果した。
 「こんなことが許されるのであれば、日本の資本主義はいったいどうなってしまうのか」。ベル24の社外取締役で、筆頭株主でありながら、蚊帳の外に置かれたCSKの青園雅紘会長は怒りをあらわにしたが、後の祭りだった。

高いものについた脱本業

 セガなどグループ企業を切り離した青園氏が拡充したのが、自分の得意分野である金融サービス事業。コスモ証券を買収したのを始め、ベンチャーキャピタルや不動産証券化を収益の柱にした。07年3月期は金融サービス事業が情報サービス事業を上回る営業利益を稼ぎ出した。
 しかし、08年3月期はコスモ証券の不振が響いて金融サービス事業の営業利益が半減。続いて09年3月期には金融サービス事業で、不動産証券化ビジネスが巨額な赤字を出して失速。青園氏の脱本業は失敗に終わった。金融や不動産が儲かるということで、本業である情報サービスを疎かにしたツケであった。かくして青園氏は引責辞任に追い込まれた。

【日下淳】

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