小沢民主党代表が言い出した企業・団体献金の全面禁止が、政界を大きく揺さぶっている。
企業献金を悪と見なすか否か意見が分かれるところだが、いつの間にか企業献金が政・官・業癒着の接着剤となってきたことは事実であろう。特に保守系の政治家や政党に対する献金についてみれば、かつては自由主義経済体制を維持し、民主主義の発展のためという大義名分が存在したものの、国際社会の変貌とともに「企業献金」の意味合いも変化した。
献金は、企業の社会貢献というより自社の利益のためと見なされるほどで、西松建設事件においても「社名を隠して政治資金を提供しても、会社にとっては何の得もない」との見方をされている。事実、西松側は「献金のおかげでダム工事を受注できた」との認識を持っていたことが報じられている。
確かに企業献金は、志ある政治家を育てる原資となり得るものである。しかし、多くの国民はそうした純粋なものは少ないと見なしている。企業献金の全面禁止には、多くの賛同が寄せられるだろう。血税による巨額の政党交付金をもらいながら、なおかつ数千万・数億円の献金を集める政治家への視線は冷たい。
問われているのは「企業献金は善か悪か」ということではない。企業献金をもらわなければやって行けない「政治の形」であり、企業の弱みにつけこむ政治家のあり方ではないか。もちろん金で政治家を動かし、利益を追求する企業側にも問題はある。「浜の真砂は尽きるとも」ではないが、贈収賄やあっせん利得の温床になる可能性が高いものは禁止する方が良いに決まっている。そのうえで、公選法や政治資金規正法の改正を進め、金のかからない政治の仕組みを確立させることが大切なのではないだろうか。
企業・団体献金の全面禁止に踏み切れるかどうか、日本の政治家の矜持が問われている。
【頭山】
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