西松建設による違法献金事件は24日、小沢民主党代表の秘書への処分決定でひとつのヤマ場を迎えるとされる。おかしな話である。逮捕された秘書が起訴されることを前提に、小沢氏が代表を辞めるか辞めないかの議論ばかり続いている。しかし、司法制度の原理・原則から考えれば、政治資金規正法(虚偽記載)違反という逮捕容疑を否認する限り、小沢氏の秘書は「推定無罪」である。三審制であることを考えれば判決が確定するのはずいぶん先のことになる。
報じられるダム建設をめぐる疑惑についても、刑事事件として立件されたわけではない。小沢氏の進退について、この時点で云々することはおかしいだろう。何度も報じてきたが、「起訴」の時点で責任が生じるという今の社会は、自らの国の法理論を否定しているに過ぎない。逮捕や起訴にはそれなりの理由があるのは当然だが、だからといって「即有罪」ではない。裁かれるのは法廷においてであり、マスコミや評論家が裁判官であるはずもない。数々の冤罪を生んだ背景には警察や検察の捜査を絶対視し、事件を煽り立てる報道を鵜呑みにする社会全体の間違いが存在する。
「道義的責任を取るべき」との意見もあるだろう。しかし、これも裏返せば「法的にははっきりしないけれど」ということに過ぎない。辞書には、「道義」とは人のふみ行うべき道とある。自身(あるいは身内の)の無罪を訴えながら、責任だけは取るということが「人のふみ行うべき道」であるとは思えない。言動に整合性がないだけだ。
裁判員制度の開始を前にもっとも議論されるべきは、逮捕、起訴、裁判と進む刑事事件において、どこまで「予断」を与える環境を排除できるかではないのか。少なくとも「起訴」の時点で、責任論が噴出する社会は裁判員制度を採用する資格はないだろう。
【頭山】
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