徳久治、ヨネの引退
それまでは個人商店などが取引の中心だったが、大手企業との取引を始めるようになると、事務的な仕事の手続きを変えなければならなくなった。そのため、経理面で手伝っていた徳久治やヨネにとっては仕事が難しくなった。それまであまりしていなかった値札付けをきちんと行なわなければならず、そのための手間が増えた。また、商戦が終わったら返品されるなど、個人商店取引では無かったような慣習が持ち込まれた。
さらに決済方法も、今までは現金取引が基本で数字を帳面に記すだけだったが、税金対策のためにレジを導入しての明朗会計が求められた。こうした方法は徳久治とヨネの時代には無かったもので、時代の移り変わりを感じた二人はこのとき完全に引退することを決めたのだった。
経営者が事業を継承するには、大きな決断が必要と言われるが、その点では人も事業も
順調に成長しており、まったく不安が無かったのは幸運だった。
銀天夜市の誕生
昭和35年から一年間、徳蔵は第6代目の佐賀青年会議所理事長を務めた。昭和36年には元町銀座商店街の会長に就任。アーケード街が一部しかない時代だ。当時、銀天通りは呉服町名店街、元町銀座、白山銀座の三商店街より形成されていたが、元町銀座の会長を務めていた徳蔵にひとつの試練が訪れた。昭和41年、佐賀玉屋が呉服町から中央通りの現在地に移転したのだ。
佐賀玉屋は、江戸時代の文化3(1806)年、田中丸善吉が現・佐賀県小城市牛津町に荒物店「田中丸商店」を創業したのが始まり。昭和5年に「株式会社玉屋」に改称し、昭和八年に呉服町に玉屋呉服店を開店して以来、佐賀県唯一の百貨店として長く市民に親しまれてきた(昭和16年に佐賀玉屋に改称)。
集客の柱だった佐賀玉屋が移転してからというものの、商店街は途端に人通りが少なくなってしまった。客足が遠のき、商店街全体の売上減少につながった。「このままではいけない。何か客寄せする対策を打たんと」。そう考えた徳蔵は、銀天夜市を発案した。6月、7月は、とくに日中が暑い上に農繁期や雨期も相まって人通りが少ない。徳蔵は考えに考え抜いた。
「夏は涼しい時にしか買い物に来られない。ナイトセールをしてみてはどうだろうか。いや、売り出しだけでは魅力が足らん。そうだ!佐賀には夏祭りが無い。じゃあ、毎週土曜に祇園祭のようなムードで楽しめる催しをやってみてはどうか。翌日は日曜日だし、夕涼みがてらゆっくりできるだろう」。これが銀天夜市の誕生につながる。
~つづく~
JR博多駅で九州~山口の≪地域限定≫キャラクターグッズを数多く取り揃えている(株)博多桃太郎。その同社の歴史を余すところなく書き記した本が完成しました。無料で配布しておりますので、御入用の方は092-431-6575(名店街店)までお問い合わせください。 【語り手】 西村徳蔵 <(株)博多桃太郎 相談役> 西村信子 <徳蔵の妻、徳久の母> 西村徳久 <(株)博多桃太郎 代表取締役社長> 【書き手】 大根田康介 <(株)データ・マックス記者> 【写真提供】 (株)博多ステーションビル 博多駅ビル名店街・地下街商店会事務局 |
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