激変してこそ企業寿命を延ばすシリーズ
4月27日、福岡地裁に泰平物産(代表・竹原正則氏、本社・福岡市中央区)が自己破産を申請した。業界では豪腕で鳴らし『調整の神様』と目された竹原社長の経営力を持ってしても破産の道を選ぶしかなかったことは、『建材商社消滅時代』の象徴であろう。業界には「泰平が潰れるのであればどこも一緒だという」という諦めムードが蔓延している。設立60周年を迎えようとしていた泰平物産がどうして倒産に至ったか、「ポイント4」に絞ってレポートしてみよう。
竹原氏が中興の祖
福岡・九州の建設商社が倒産相次ぐなかで、表面上は活況を呈しているように見えていたが、実際のところは売上げの落ち込みと収益の低迷に苦しんでいた。この厳しい経営環境の圧迫に、一見、豪放磊落な竹原社長も脳梗塞で2回倒れている。内心は神経過敏な方なのである。同社は1949年設立され60周年を迎えようとしているが、一時は会社更生法を申請して『再生』を果たした経緯を有している(当時、会社更生法を申請して再生させたのは日本で第一号という記録も有していた)。歴代の社長は社内からバットンタッチを行なってきた。当時、一族経営でないのは業界でも異色であった。
竹原社長は67年、28歳の若さで営業部長としてスカウトされて以来、セールスの辣腕振りを遺憾なく発揮して業績発展に貢献した。その実績を背景にして、83年に8代目社長に就任。以来26年になる。竹原社長の就任以降、泰平物産の経営の質が変わった。同社は竹原氏がオーナーの会社に変化したのである。そして誰でもが「次期後継者は長男・久人氏(専務・営業本部長)が就く」と見られていた。
建材商社にとっては恵まれた時代背景(83年以降)があったとしても、同社が100億円企業に仕立てられた最大の要因は竹原社長の絶妙な経営手腕である。この功績は誰もが認知している。その企業力の蓄積の証が、93年9月に現在の本社敷地を購入して翌年の12月に本社ビルを完成させたことだ。さらに隣接地に賃貸マンション一棟を掌握した。93年から96年が同社にとって絶頂時期と言えるだろう。まさしく竹原社長は泰平物産の『中興の祖』の存在なのである。ところが異変が生じた。
~つづく~
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