激変してこそ企業寿命を延ばすシリーズ
ポイント1
何故、バトンタッチができなかったか?
竹原社長が脳梗塞で倒れたことは関係者には伏せられていた。筆者も病気の事実を後で知った。さすがに2回目の病に襲われたときには「2回の病魔襲来を退治した貴方の悪運には舌を巻きます。しかし、会社の将来を見定めて久人専務に早く社長のポストを譲って会長に座ることが賢明ですよ」と忠言した。同氏の返事が曖昧模糊としていたのには懸念を抱いた。「まだ結婚に縁がないから駄目だ。もう少し鍛える必要がある」と釈明する。会う度に「40歳を過ぎているから時期尚早ということはない」と繰り返せば、「会社設立60周年、俺が70歳になるときを目処にしよう」という言質を得た(久人氏は専務取締役営業本部長としてソツのない指導力を習得していた)。
だが結果は60周年を眼前して敢え無く倒産したのである。企業戦争の激烈・非情さを目撃させられた。
ゴルフの腕前はシングル、芥屋ゴルフ場ハンデキャップ委員長の要職にあり、健康面で鉄腕と見られた竹原社長が脳梗塞に倒れたのはまさに経営者病である。業績の悪化に伴うストレスの累積から血管がつまったのだ。業績の交代は売上げの落ち込みと粗利の低下である(この点は後記する)。利益圧迫に悩んでいた同社は、07年3月期に虎の子の賃貸マンション(前記した絶頂期に取得した物件)の売却を余儀なくされた。翌08年3月期には親和銀行株の除去損5,000万円と子会社・泰平木材の吸収合併に伴う子会社貸付金3,000万円の清算などにより、最終赤字8,5000万円を計上した。プライドの高い竹原氏ばかりでなく、一般的な親父の威厳の観点からみても、息子に経営不振の会社を託すわけにはいかない。政権交代が遅れるのは自然の成り行きであった。
話題をすこしわき道に逸らしてみよう。泰平物産は長い間、九州銀行(九州相互銀行時代から)福岡地区の重要な役割を果たしてきた。竹原社長は取引企業の調整役をこなす重鎮の役にあった。九州銀行の幹部たちも様々な相談に日参していた(竹原氏はどこの世界でもドンの役まわりをする奇特な運命の持ち主だ)。九州銀行の取引先の大御所的存在であるから、同行が増資の第三者割り当てを募る事態が生じれば、断るわけにはいかない。
竹原氏は率先して資本増資の第三者割り当てに応じた(本音は素振りをしたというのが正解だろう)。だから「あの泰平物産さんが増資を引き受けたのだから、うちも応じなければなるまい」という流れが完成した。不動産・デベロッパー業界が、当時の九州銀行との融資関係の思惑で増資に積極的に関与したのは当然の成り行きである。だが、それ以外の業種の経営者の大半は、竹原社長の選択(増資に参与した行為)を見習って共同行動に踏み切った。
九州銀行のその後の成れの果ては、周知の通りである。親和銀行が主導権を握った新生『親和銀行』のやり口に業を煮やした福岡都市圏の取引企業の良筋先は離れていった。佐世保から福岡へと本格的に開拓に挑んできた九州相互銀行時代からの40年間。全行員たちが、汗と涙の結晶で営々と取引先にアプローチした。結果、5兆円くらいの価値ある資産(得意先)を形成した。ところが、新生『親和銀行』の傲慢な姿勢が、一瞬にしてこの資産を跡形もなく消し去ってしまったのだ。泰平物産の、九州銀行への増資の第三者割り当てに応じた無償の行為も仇になった。除去損5,000万円の打撃を受けて、倒産への足跡を早めてしまった。
上記してきた通りに、竹原社長は独特のキャラクターを背負った人物である。俗物な表現をすれば「親分肌」が宿命付けられている。筋を通し義理堅く、理不尽なことには強力な攻撃をかけていく性格は「川筋気質」というものかもしれない。仕事の取り合いで業者が喧嘩・対立を発生させれば、仲介に呼ばれる。そうすれば見事な調整能力で裁いてみせる。その貸し借りの積み重ねで、得意先であるはずのゼネコンからも頼りにされるようになる。
竹原社長は次のことを充分に認識していた。「泰平物産の営みは自分の個性・人脈で成立してきた。息子に短期間で継承できるものではない。久人自身に、俺の培った人脈が完全移行できるまで政権交代を見送ろう」と。ところが予想を超えて外部環境の悪化の速度は加速化された。破産の道しか残されていなかったのである。
~つづく~
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