<リクルート事件の後遺症>
江副氏は、どんな目的で政界に接近し、気前よく株をバラまいたのか。その真因は謎といわれた。当時、有力視されていたのが高度情報通信サービス事業への進出だ。
85年4月に電気通信事業が自由化。江副氏は就職情報誌、マンション事業に次ぐ第三の柱として回線リセール事業を構想。1秒間に1万回以上の演算ができる高性能・超大型のスーパー・コンピューター(スパコン)を据え付けて、電話回線を小売りする事業である。
この時期、中曽根政権は米レーガン政権の要求で米国製品の輸入を推進、手始めに米クレイ社のスパコンを購入することに。86年4月、NTTはリクルートへの転売を前提にクレイ社のスパコン購入を決定。リクルートは国策に協力することで、政府とNTTに食い込み、情報通信サービス事業に進出できたというわけだ。
しかし、通信事業が陽の目を見ることはなかった。90年代になると、スパコンは時代遅れになってしまった。コンピューターの小型化が進み、パソコンが普及。スパコンからパソコンへ。巨大コンピューターの時代は終焉した。
リクルート事件は深い後遺症を残した。創業者の江副氏はリクルートを去った。92年6月に、中内功氏が率いるダイエーグループに買収された。しかし、ダイエーの経営危機で、2000年2月、再びリクルート側に株式が売り戻された。現在、リクルート社員持株会が20.8%を保有する筆頭株主。リクルートは社員たちがオーナーの会社だ。
一方、事件の当事者であったリクルートコスモスは05年5月、MBO(経営陣が参加する買収)方式で、投資ファンドのユニゾン・キャピタルに売却された。社名をコスモスイニシアに変更、リクルートの名が消えた。
リクルート創業者の江副氏にとって、リクルートコスモスは思い入れが強い事業。なぜ、不動産に進出したかというと、成功した実業家が土地投資で財を築いたことに倣ったためだ。だが、後輩のリクルート経営陣は、情報サービスというコアビジネスに集中すべく、業務上のつながりがないリクルートコスモスを売却したのである。
<「かんぽの宿」疑惑に登場>
リクルートコスモス改めコスモスイニシアは、今年に入り事件に登場する。「かんぽの宿」売却問題である。日本郵政による「かんぽの宿」のオリックス不動産への売却は、鳩山邦夫総務相の「デキレース」批判で白紙還元に。だが、日本郵政公社時代にも、安値で叩き売られていた。3年間にバルクセール(一括売却)した物件は424件にのぼる。
日本郵政公社は07年3月に「かんぽの宿」や社宅など178物件をバルクセール方式で売却。コスモスイニシアなど7社で構成するグループが115億円で落札し、物件を山分けした。
レッドスロープなる会社は、鳥取県岩美町の「かんぽの宿」を1万円で取得し半年後に6,000万円で転売。濡れ手に粟の巨額な利益をあげていた実態が次々と明るみになった。
レッドスロープは同じ落札グループのリーテック(東京・港区)の100%出資の子会社。リーテックの平松克敏社長(47)はリクルートコスモス出身。リーテックにはコスモス社が出資し、本社はコスモス社と同じビルに置いていた(現在は移転)。
リーテックは日本郵政公社がバルクセールした物件424件のうち92件を落札。手に入れた土地を右から左に転売して荒稼ぎした。買収資金を融資していたのがオリックスだ。「かんぽの宿」問題では、リーテックを介してオリックスとコスモスイニシアのいかがわしい関係が浮かびあがったのである。
投資ファンドの傘下で再出発したコスモス社だが、結局、金融機関に救済を求めるまでに追い込まれた。その有為転変の軌跡に、リクルート事件の後遺症をみることができる。
(了)
【日下 淳】
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