サンコー・テクノ
5月7日、(株)サンコー・テクノが破産手続きに入った。同社は国内シェア6割を超える養魚機械メーカー。高い技術を持ちながらも破綻してしまった同社だが、その裏には、企業の私物化、社のモラルの低下があった。
代 表:中村 守
所在地:福岡市中央区大宮2-6-23 141ビル1F
設 立:1984年11月
資本金:1,000万円
年 商:(08/9)約13億円
<転落劇の始まり>
(株)サンコー・テクノの顛末を語るには、まずその前身である産興技研を語らなくてはならない。産興技研は1977年に設立された機械メーカー。JRA(日本中央競馬会)の厩舎に向けた機械式除虫装置の製造販売で堅い経営をしていたものの、84年8月に倒産してしまった。当時、巷を騒がせた融通手形をつかまされての連鎖倒産だった。当時の社長である故中村智寛氏にとっては、まさに晴天の霹靂のような倒産劇であったろうと推察される。
その産興技研に機械材料を卸していた企業の経営者が、智寛氏の人柄、事業内容に魅せられて出資。倒産からわずか3カ月後の84年11月に、新会社であるサンコー・テクノとして生まれ変わることとなった。かたちの上では材料を卸していた企業の社長が同社社長を兼務している格好をとったが、事実上経営の陣頭指揮は、智寛氏との二人三脚体制であった。
設立後、魚の養殖用装置を中心に売り上げを伸ばし、87年には鹿児島営業所を開設。91年には鳥栖に工場を設けるまでになった。増収増益の連続だったという。
売り上げが10億円に達したことで、材料を卸していた社長は同社の経営から事実上身を引くことを決断する。これにより同社の経営は智寛氏一人に委ねられることとなった。ここからが転落劇の始まりだった。
~つづく~
【柳 茂嘉】
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