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東京レポート

業績は絶好調も株価は冴えず 任天堂の大いなるギャップ(2)
東京レポート
2009年6月17日 08:00

DS、Wiiの誕生

 山内氏が後継者に指名したのは岩田聰氏(49)である。岩田氏は北海道出身。札幌南高校時代に、米ヒューレット・パッカード製のプログラミング電卓でゲームを多数作成し、「札幌の天才少年」と呼ばれた逸話が残る。東京工業大学情報工学科を卒業した岩田氏は、従業員5名のHAL研究所にプログラマーとして入社した。
 しかし92年にHALが倒産。ファミコンを共同開発していたHALの再建に乗り出した任天堂社長の山内氏が、支援の条件として出したのが、岩田氏をHALの社長にすることだった。「誰よりもおもしろいソフトを作る」岩田氏の特異な才能を高く評価していたからだ。
 HALの再建を成し遂げた岩田氏は、経営企画室長として任天堂に招かれた。当時、任天堂は深刻な事態に陥っていた。94年発売されたソニーコンピュータ・エンタテインメント社(SCE)の「プレイステーション」に首位の座を明け渡し、マイクロソフトの「Xbox」にも追い抜かれ、屈辱の業界3位に転落。「任天堂はマイクロソフトに買収されるのでは」との噂が出たほど。
 02年に岩田氏は社長に就いた。第一線から退いた山内氏の申し送りは「借金はするな」と「おもしろいゲームをつくる」の2点。岩田氏は申し送りを忠実に実行した。任天堂は現預金7,562億円(09年3月期)をもつ無借金会社だ。岩田氏はゲームで巻き返しに出る。当時、ゲームがあまりにも高度で複雑なものになり、ゲーム人口が減っていた。ゲームに関心が薄い女性層を開拓し、ゲーム市場の裾野を広げるゲーム機の開発を決心。その第1弾が、04年12月に発売した携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」だった。DSのヒットが跳躍台になった。  岩田氏の目線は、ユーザーの目線と同じだ。先端技術や多機能性を追求しただけでは、楽しさやおもしろさに直結しないと経験で知っているからだ。「楽しさやおもしろさ」を追求してきた岩田氏は、第2弾として06年12月に、直感的な操作が可能なリモコン型コントローラを採用した据置型ゲーム機「Wii」を発売。これも世界的に大ヒットした。
 任天堂のおもしろさに徹したDSとWiiが、先端技術を追求してきたSCEの「プレイステーション」を打ち負かし、ゲーム機市場首位の座に返り咲くことができたのである。

ピークを過ぎたとの懸念

 「ゲーム機は投入から3~4年でピークアウトを迎える」。ゲーム業界のジンクスだ。ユーザーは絶えず目新しさを求めるため、どんな大ヒット商品でも3~4年で飽きられるようになるという意味だ。
 任天堂は04年の「ニンテンドーDS」、06年の「Wii」と立て続けにヒットを飛ばした。任天堂がゲーム市場を快走できた最大の理由である。株価が07年11月に7万円を突破したのは、DSとWiiの二枚看板が破竹の勢いで伸びていたからだ。だが、その勢いが止まった。正確にいえば、国内の販売が勢いを失ったことが株安の根底にある。
 ゲーム業界では、国内の販売動向が海外の先行指標になるとされる。09年3月期は、海外市場が2倍増に拡大したことで大幅に増えたが、国内では、前の期に比べてWiiが47%減、DSも37%減に終わった。
 国内で勢いが止まったことが、ドル箱の米国市場にも波及して海外で失速を招くのではないかとの懸念で、株価がしぼんだ。業績は絶好調なのに、株価は冴えない。そのギャップは、DS、Wiiに続くヒットが生まれていないことによる。両ゲーム機の特性を生かした「楽しくておもしろい」ソフトを投入できるかが、今後の株価復活の焦点といえる。 

~了~

【日下 淳】

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