第2の「製販分離」政策か
これまで新車開発は、製造部門が主導権を握り、市場ニーズの乏しい大型車をディーラーに供給しがちだった。いわば工場主導のプロダクトアウトの発想である。これに対して新生トヨタは、販売サイドがどんなクルマが好まれるのか市場調査した上で、製造部門に呼びかけて新車開発をするマーケットインの姿勢への転換を狙っている。声の大きい製造部門に言うことを聞かせるため、新会社の会長には章男氏が就き、にらみをきかすという。
これは、いわば第2「製販分離」ともいえるだろう。トヨタは戦後間もなくドッジラインのデフレ政策で経営が急激に悪化。労働争議が起き、人員整理とトップの引責辞任がおこなわれた。このときに日銀が仲介役となって銀行団による救済の協調融資をする代わりに、製造部門と販売部門を分ける「製販分離」が条件付けられている。これによって1950年に製造のトヨタ自動車工業と販売のトヨタ自動車販売に分離され、82年に両社が統合するまで製造と販売は隔てられたままだった。製販分離は、製造側が作りすぎて過剰在庫をもたらすのを恐れた銀行団が、売れるクルマしか製造部門に作らせないための条件だった。
(つづく)
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