<最後の将軍・徳川慶喜の優柔不断さは歴史の必然>
最後の徳川将軍・慶喜は、歴代の将軍で一番優秀で、剛毅であったと評価されていたことから、官軍側の西郷隆盛や大久保利通などに非常に警戒されていた。だから官軍側は、武力優先に走ったと歴史家は解釈する。それだけ敵に恐れられるまでの存在であった慶喜は、260年あまりも続いてきた徳川幕府を延命させるための最後の救世主と期待されて登場した。加えること、慶喜が将軍に就く10年前には、井伊大老から『安政の大獄』で謹慎の処分を受けていた。いわば、徳川体制内の内ゲバで敗北していたのだ。その敗北者を徳川政権のトップに据えるのだから、「この組織の寿命が断たれるのは時間の問題だった」ことがよーく理解できる。
また、末期の組織の特徴として、トップの君臨期間が短命であることだ。徳川政権末期でも然りである。最後の10年間に慶喜を含めて3人も将軍が交替している。表向きに前任の2人は病死扱いだ。260年以上存続する組織も、時代の流れから遊離して疲弊してくる。一族でトップを決定してきたが、このトップも生命力のない軟弱な奴から選ばれる宿命がある。生命力が乏しかったことも一要因。さらに260年以上生き永らえてきた組織の矛盾の噴出に対しての解決に、前例にない決断が求められる。精神的なタフさが必要だ。それも常人の万倍以上を強いられる(無感覚では話にならない)。ところが、ひ弱な将軍たちにとって『尊皇攘夷』を巡る国内の分裂状況のなか、そのストレス圧力には参ったことだろう。結果、精神的な疲労困ぱいが理由で若死したのである。
そして、最後の期待を一身に浴びて登場した慶喜もあっ気なかった。1867年末に始まった戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いにおいて、慶喜は官軍側に錦の御旗が棚引いているのを目撃し、戦意を喪失。その後、味方を騙して密かに大阪城から脱出し、一心不乱に江戸へと立ち帰った。ここで徳川陣営に大きな亀裂が走る(自民党の現状とうり二つ)。さらに、江戸城明け渡しの際もあっさりしたものであった。冒頭に指摘した官軍にも恐れられていた慶喜の豹変ぶりには、大久保利通も拍子抜けしたのではないか。残念ながら筆者は、慶喜本人の「私はもともと尊皇派であったから、天皇に刃向かうことはできなかった」という釈明を聞いていない。明治維新後、慶喜はぬくぬくと『子づくりと趣味』に専念したことは周知の通りである。
<自民党も軟弱なトップを抜擢したのは必然>
麻生首相の前の福田さんの総理大臣辞任の弁。「大連立政権を組むと言いながら、民主党さんはお断りになられた。これでは責任を持って国家経営は全うできません」と政権を投げ出した。「衆議院の300議席を背景に、圧倒的な権力を振えるはずの総理大臣がやることか!!無責任だ」と国民は怒っている。忘れない。日本人がこの『忘却しなくなった』という変質に、まだ自民党の方々は気づいていないようだ。必ずしっぺ返しを浴びる。
最後の将軍・慶喜の日和見を記述したが、麻生首相の10カ月の優柔不断ぶりとダブってくる。自民党最後の麻生首相も、平時であれば能力を発揮できたのであろうが、組織の末期には流されるだけの人であったのだ。
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